住む場所と着るものは最低限にできますが、食事まで削るといろいろと問題が生じますし、特に過酷な状況に赴く軍隊においては重要なポイントでした。
昭和十五年(1940年)5月30日は、旧海軍所属の給糧艦・伊良湖(いらこ)が起工した日。
当時の海軍にとってアイドルのような存在で、もう一隻の給糧艦・間宮と共に兵士たちに大人気でした。
給糧艦の「給」は給食の給と同様で「何かを補充すること」という意味です。
似たような部類の船としては、船の燃料・石炭を運ぶ「給炭艦」や、石油を運ぶ「給油艦」などがあります。
給糧艦の場合は「食糧」を運ぶのが主な仕事でした。
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一度出港したら補給の保証なき軍艦
旧軍で食べ物の話題というと、末期の悲惨な状況の話が有名かもしれません。
しかしそれまでは軍の上の方でもそれなりに気を使っています。
人間の三大欲求のうち、戦場でも共有できて工夫が可能なものというと「食」しかありません。古来から「腹が減っては戦はできぬ」なんて言われますしね。
現地で買ったり奪ったりもできなくはない陸軍と比べ、海軍は一度出港したら無事補給先にたどり着けるとは限らない……という点も理由のひとつでしょうか。
いつ敵艦に攻撃されるかわかりませんし、悪天候で予定がズレることも十二分にありえます。
海軍のお偉いさんたちは「メシが確保されないと、いざというときお国の役に立てないだろ!!」(※イメージです)という熱い要望を政府に出し続けていました。
そして、給油艦に使う予定だった予算の一隻分を投じて作られたのが「間宮」という給糧艦です。
1922年10月起工・1924年7月竣工なので、伊良湖の大先輩という感じですね。北米航路向けの客船設計をベースに作られており、かなり大きな船でした。
現代でも食料の輸出入に使う船はかなりの大きさですが、間宮の場合は保管のための冷蔵・冷凍庫だけでなく、他の設備も豊富に備えています。
こんにゃく・豆腐・油揚げといった外国ではほぼ調達不可能な食品や、アイスクリーム・ラムネ・最中・まんじゅうといった嗜好品までを作れる設備と、それぞれを専門とする職人が乗り合わせていたのです。
中でも間宮で作られる羊羹(ようかん)は絶品で、某老舗和菓子屋の羊羹にも匹敵する味だったとか。
給糧艦・伊良湖 2隻で50万食を積み込めた
良いものを作って前線の士気を支える――。
そのため同艦では真水や衛生にも細心の注意が払われていました。
しかし、間宮はその巨大さや設備の都合上、あまりスピードは出せません。
そのため、第二次世界大戦の兆しが見え始めると、「士気の要となる給糧艦が一隻では心もとない」と考えられました。
そこで再度海軍の根強い要請により、二隻目の給糧艦・伊良湖が起工したのです。
……その気合を開戦回避とか休戦・停戦交渉の方向に使えれば……(ボソッ)。
間宮は1万8,000人×3週間分、伊良湖は2万5,000人×2週間半分の食糧を運ぶことができました。単純に考えて、この二隻で50万人が一日に食べる量を運べていたわけです。
もはや規模がデカすぎてわけがわかりませんが、乱暴に言うと”間宮と伊良湖が一斉に食糧を放出すると、姫路市や宇都宮市などのいわゆる「50万都市」で一日に消費されるのと同じくらいの量になる”わけです。
余計ワケワカメになった気がしますがキニシナイ。
他にもクリーニング屋さんのような洗濯・アイロン設備を持っており、海軍にとっては「美味しいご飯とおやつを持ってきてくれるでっかいカーチャン」のような船でした。
間宮もしくは伊良湖が来る、と聞くと、多くの兵が歓喜に沸いたといいます。
いつの時代も美味しいものは元気の源ですものね。
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