数多の企業や機関を設立した渋沢栄一。
その事績の中で、代表的存在と言えるのが第一国立銀行(だいいちこくりつぎんこう)ではないでしょうか。
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民間へ
と目まぐるしく立場を変えた渋沢の経歴において、初めて民間人として運営を任された企業。
明治6年(1873年)6月11日に創立され、約一ヶ月後の7月20日から営業を始めています。
これは“日本最古”の銀行であり、後に乱立する金融機関のさきがけ的存在でもありました。
では、その第一国立銀行で渋沢は一体何をしたのか?
そもそも誰が金を出し、銀行を設立したのか?
栄一の手腕と併せて見て参りましょう。
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国立銀行条例の制定
明治に入り、フランスから帰国した渋沢栄一は大蔵省(現在の財務省)に入省。
財務面で立ち遅れていた日本の経済基盤を整備するために奔走しました。
しかし、彼が掲げる財政改革の方針は、当時の明治政府と折り合いが悪く、思い通りに手腕を発揮できません。
悶々とした状況が続く中、全員一致で必要としていたのが「バンク」でした。
言うまでもなく銀行のことですが、それ以前の江戸時代はどうだったの? というと金融機関がなかったワケじゃなく「両替商」や「蔵元」などがありました。
もちろん銀行とは役割が違います。
幕府や諸藩を相手に商売するのが両替商・蔵元の主な業務である一方、銀行は預金の保護機能だけでなく、産業育成のために必要とされました。
いわば国を豊かにするための組織であり、ゆえにその設立が急務だと考えられたのです。
その結果、明治2年(1869年)に創設されたのが「為替会社」と「通商会社」でした。
両者はいずれも【日本最初の株式会社】として歴史に名を刻み、主要都市に設置されましたが、業績が奮わず失敗。
それでも「バンク」の必要性は引き続き訴えられます。
江戸時代からの豪商小野組や三井組からも政府に請願書を提出しており、他ならぬ政府自身も、乱発していた巨額の紙幣を処分する必要性に迫られていました。
結果、制定されたのが銀行条例でした。
アメリカの銀行制度を調査した政府が導入したもので、その金融政策を任されたのが渋沢栄一と同僚の芳川顕正だったのです。
二人はアメリカを含めた欧米各国の紙幣条例を参考にしたうえ、国内の状況なども加味して明治5年(1872年)に国立銀行条例を考案。
同年中に全国にも布告され、銀行設立の準備が整いました。
第一国立銀行が誕生し、栄一が経営に参画
かように国立銀行条例の制定に尽力した栄一ですが、度重なる政府首脳との衝突から、大蔵省員としての生活に限界を感じていました。
そして明治6年(1873年)には大蔵省を去り、民間へと下ります。
政府とは何の関係もなくなった栄一。
彼にとって都合のいいことに、自身が制定した国立銀行条例に基づく国立銀行の立ち上げ話がまとまりつつありました。
それが第一国立銀行です。
多くの実業家たちが共同出資で設立――と言えば聞こえは良いですが、実態は豪商の小野組と三井組の権力が二分された組織です。
結果「どちらの会社からトップを選出するか」で大きな問題になってしまい、そこで白羽の矢が立ったのが大蔵省を辞めたばかりの栄一だったのです。
ある意味、棚ぼた的に転がり込んできた役職ですね。
渋沢栄一自身も銀行経営には興味を持っていましたので、失業後、渡りに船とばかりに両組織からの依頼を受諾し、彼は組織の「総監役」として経営に参与しました。
……と、ここまでの内容をお読みいただければ、こんな疑問を抱くかもしれません。
渋沢栄一は、民間へ下ったのに、なぜ『国立』銀行の経営に参与した?
そもそも、小野組と三井組の会社なんだから、私立(民間企業)と呼ぶのが適当では?
至極真っ当な疑問でしょう。
答えから申しますと、実は、第一国立銀行は「国立」ではありません。
いったい何を言ってるんだ?と思われるかもしれませんが「国立銀行条例」で用いられる「国立」という言葉の意味が、我々のイメージとは異なります。
「国の法律によって作られた・国公認の」という意味であり、現在の国立大学や国立博物館のように「国が作って、国が運営する」ようなものとは違うのです。
なんとも紛らわしい話ですが、こればかりは「そんなもんか」と呑み込んでいただければと存じます。
ともかく、栄一・小野組・三井組――それぞれの思惑を乗せて発進した第一国立銀行。
立ち上げ早々の明治7年(1874年)1月から、衝撃のニュースに襲われます。
共同経営者の一角である小野組が、いきなり経営危機に瀕してしまったのです。
小野組破綻により経営危機に陥る
為替や生糸、鉱山の経営など。
手広く事業を興していた小野組が、なぜ急に追い込まれてしまったのか。
答えは、政府による「小野組潰し」だと考えられています。
小野組は、もともと放蕩な経営に走る傾向があり、栄一も「三井より実力が乏しい割に、派手で華美な経営をしたがる」と語っています。
彼らは実力者・古河市兵衛を有する大組織。
そのためイケイケドンドン状態だったのでしょう。
当時の政府としては、これを黙って見ていられる場面ではありません。
なんせ多額の国庫金を小野組に預けていましたので、万が一派手に破産し、毀損した場合「国庫金が戻ってこないのでは?」と恐れたと思われます。
結果、小野組の為替事業を狙い打ちしたかのような規則が施行され、彼らはどんどん追い詰められていきました。
ここで頭を抱えたのが、第一国立銀行の実権を握る栄一でした。
なぜなら小野組の派手な経営には多額の融資が必要であり、かなりの金額を融資していたのです。
もし借金が回収できなければ、第一国立銀行まで連鎖倒産してしまう。
それだけは避けねばならない。
栄一も救済したいと考えていたようですが、三井側からは「なぜ小野組を助けなければならないのか!」と詰め寄られ、板挟みになってしまいます。
「政府の役人でいれば、こんな思いをしなくて済んだのだろう」
こんな言葉を書き残すほど追い込まれていました。
そんな折、小野組の古河市兵衛が栄一のもとを訪れ、こう語りました。
「色々とお世話になってきたが、小野組はどうやら継続が難しくなってきた。
小野組のため、あなたにご迷惑をかけるわけにはいかない。
銀行を潰すようなことがあってはならないので、私の財産はなんでも差し出すから、抵当に入れて欲しい」
抵当とは差し押さえの権利であり、普通は銀行側が事前に設定しておくものです。
それを古河市兵衛自らが言い出すとは、自分の財産を借金に差し出すようなものであり、栄一を感心させました。
結果、第一国立銀行は完全な抵当を受け取ることができ、ほとんど実害無く事業を継続させています。
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