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【西竹一(バロン西)】
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人馬一体の男爵
騎兵隊に入った西は、乗馬技術を発揮することとなります。
「春海」と「福東」という二頭の馬を支給され、西は障害を習うことにしたのです。
代々木練兵場に向かい、石垣を馬で飛び越えてゆく西は、その無謀な勇気で噂となりました。
あるとき西は、「リバティ」から買い換えた愛車「クライスラー」を福東号で飛び越え、周囲を唖然とさせました。
失敗すれば、人馬ともに怪我は免れません。
福東は陸軍から支給されているのですから、骨折させて殺処分にでもなったら大問題になります。
それでも西は、やってのけたのです。
騎兵は目立ちたがり屋が多いとされておりましたが、その中でも西は際だっています。
馬具とブーツは特注のエルメス製、身につける軍服はオーダーメイドで、その美貌を際立たせるための工夫が凝らされていました。
落馬をものともせず挑む西の乗馬技術は、驚くべきものでした。
その強気な態度が生意気と思われることもありましたが、西は意に介することはありません。
馬に対しては厳しく、容赦なく鞭を入れました。
それでも負傷した際はつきそい、回復するまで見守ることもあったのです。
馬にもそうしたあたたかい心根が伝わったのか、西によくなついていたのだとか。
西は、人にも馬にも情愛深い性格であったのでしょう。兵士たちも、そんな西を慕ったのです。
陸軍騎兵学校の乗馬大会では、いきなり二位入賞を果たします。
その華麗な乗馬技術は、周囲からもう、
「他の作業はいいから、西は馬にだけ乗っていればよい」
と太鼓判を押されるほどのものになりました。
当時、馬術には三種類ありました。
人為馬術(ドイツ式)
自然馬術(イタリア式)
中庸馬術(フランス式)
しかし、西はこうした乗り方を習う以前に自己流をマスターしていたのです。
膝ではなく、たくましい大腿部(騎座)で馬を締め付ける。そんなやり方でした。
騎兵としては異端ではありますが、理にかなった手段です。現在は多くの障害騎手が、これと同じ乗り方をしているそうです。
西は175センチ、70キロ、脚が長く胴は短いという、日本人離れした体型でした。
薩摩出身者は、豚肉を食べていたせいか、幕末のころから長身の者が多い傾向がありました。西も父から、そんな血を受け継いだのかもしれません。
西は腰の幅が広く、脚がともかく長い。
しかも柔剣道有段という、高い運動能力の持ち主です。
全身がしなやかな筋肉質である西は、乗馬にはぴったりです。特別にあつらえた騎兵服で馬を乗りこなす西は、極めて目立つ存在でした。
騎手は馬の負担を軽くするため、小柄で体重が軽い方が向いているとされます。
ただし、障害競馬騎手の場合はある程度の身長があった方が向いているのです。
西の体型は、障害旗手として最高のものでした。
西竹一とウラヌス
昭和3年(1928年)、アムステルダム五輪馬術競技に、日本陸軍から4名が派遣されました。
陸軍内には東条英機中佐はじめ、費用対効果を疑問視する声もありましたが、世論のためにも参加することにしたのでした。
当時の西は、宿題を別の士官に代筆させて叱られることもある、そんな子供っぽいところもありました。
このときは叱られて素直に謝罪し、そのしおらしさが叱った側を感服させてしまったほどだとか。
それでも馬術の訓練については熱心で、たいしたものだと周囲から見られるようになっていました。
昭和5年(1930年)、ロサンゼルス五輪の馬術競技選手候補が選抜されました。
西はその中で最年少候補です。
そんな折、イタリアからこんな話が届きました。
「馬体が大きすぎて、持て余され、売りに出されている障害競技用のアングロノルマン馬がいる。血統書はないが、実力はありそうだ。名はウラヌス(天王星)だ」
西は、この馬の購入を決め、ヨーロッパまで購入に向かうことにしました。
まさにそれは運命の出会いとなるのです。
ヨーロッパに向かう船旅の中、西ははしゃいでいました。
軍務から解放され、七三分けにした美男です。当時の日本人は背広を着こなせず、ネクタイが曲がっているような者もおりました。
しかし西は、さっと着こなしておりました。
ヨーロッパへ向かう豪華客船上で、西はアメリカ人夫妻と意気投合します。
ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻でした。ハリウッドスターとして人気絶頂にあった二人です。
フェアバンクスと西は、大親友と言えるほど意気投合しました。
夫妻が来日した際には、自宅に呼んで毎晩どんちゃん騒ぎを繰り広げたのだとか。
イタリアにたどり着いた西は、まとまった現金を持参し、ウラヌスの元へと向かいます。
ウラヌスを見た西は、その181センチもある巨体に目を見張ります。
まれに見る、巨大な馬でした。
参考までに比べますと、サラブレッドは平均160-170センチ。
日本の戦国期の馬は、ポニーサイズの147センチ以下ほどのものがほとんどです。
ウラヌスの種であるアングロノルマンでも、平均は155-170センチ。
180センチ台となると、ばんえい競馬で知られるペルシュロン種等、かなり大型の種に限られております。
巨体であるとはいえ、障害競馬の馬としては理想的でした。
筋肉が発達していて、肩は理想的に傾斜しています。
栗毛で、頭部に白い星が入っておりました。
巨体に驚きながらも西は、果敢にまたがります。西にとって、これほど巨大な馬は初めてのこと。
西竹一とウラヌス――これぞまさに、運命の出会いでした。
家庭環境もあってか、名門の子息でありながら孤独なところがあった西。
実母と再会しても、涙すらこぼさなかった西。
わがままと言われるほど奔放ながら、周囲から理解されないと悩んでいた西。
そんな彼にとって、ウラヌスは特別でした。
「人にはなかなか理解されないが、ウラヌスは自分を理解してくれる」
西はそう語っていたほどです。
名騎手とは、馬がどれほど自分を理解してくれるのか語るもの。西竹一もそんな一人でした。
このあと、西はヨーロッパの馬術大会を制覇し続けます。
「バロン・ニシ」
「ウラヌス」
この二つの名が、ヨーロッパを駆け巡ることとなったのです。ウラヌスのもとの持ち主が、惜しんで買い戻そうとしたほどであるとか。
美男で人馬一体の西は、社交界でも大いにモテます。
西はそのことを武子への手紙にもさらりと書いてしまう、そんな裏表のない性格でした。
春から秋にかけてヨーロッパの馬術大会を制覇した西は、日本へと帰国します。
西は騎兵学校にウラヌスの飼育を依頼するのですが、ここで校長が激怒します。
「書類だけで頼みこむとは何事か! 本人が挨拶に出向いてこんか!」
これは無論表面上の理由でしょう。西の華やかな活躍に嫉妬混じりの反感を持つ者も、出始めていたのです。西が軍務ではなく馬術鍛錬にばかり打ち込むことへの反発もありました。
こうした憂鬱な状況を乗り越え、西は訓練に励む他ありません。
こうした状況の中で、西がウラヌスとだけは心が通じ合うと考えても、無理のないことであったかもしれません。
ウラヌスはあまりに力が強く、障害を落としてしまう癖がありました。
西はこの欠点を矯正するため、粘り強く取り組んだのです。
その方法は彼独自のもので、周囲の主流であったイタリア式馬術とは異なるものでした。
かくして西は、ロサンゼルス五輪馬術競技体表選手として、選抜されることとなります。
29歳の中尉は、最年少です。
誰の目から見ても、西が最も期待されていることは明らかでした。
それなのに、彼本人は武子にこう言ったのだとか。
「どうも俺は、お情けで選ばれたようだ」
本気なのか、照れ隠しなのか、ちょっとわかりませんね。
当時、日本の馬術はヨーロッパには歯が立たないと思われていました。
それでも、参加することに意義があると考えられていたのです。
彼は暗い世の輝きだった
西はこのあと、時代の寵児として喝采を浴びることとなります。
その背後にあった世界情勢において、対日感情が悪化していたという点も考えねばなりません。
昭和3年(1928年)張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)柳条湖事件
そしてロサンゼルス五輪の昭和7年(1932年)には、第一次上海事変、ついに満州国建国にまで至っているのです。
国際連盟は、リットン調査団派遣を決定。満州事変や満州国の妥当性について調べ始めているのです。
国際的に、日本への目線が冷たくなっていました。
黄禍論も高まり、アメリカの日系人は辛い思いの中で生きていたのです。
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そんな中でのバロン・ニシは、暗い影のつきまとう日本の像からはほど遠い人物でした。
長身のハンサム、洒落たファッション、明るく社交的。
流暢に英語を話し、ハリウッドスターたちとパーティを楽しむ、人馬一体の男爵――。
日本にも、こんな魅力的な紳士がいるのだと、世界はホッとしたのです。彼の前では、政治とスポーツを切り離すことができました。
しかし、運命は西をこのまま輝きの中に留めてはくれなかったのです。
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