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【西竹一(バロン西)】
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ロサンゼルスのバロン・ニシ
昭和7年(1932年)のロサンゼルス五輪には、田畑政治率いる水泳選手団らも含めた日本人が参加しました。
現地では、日系アメリカ人も熱い目線を彼らに送っています。
そればかりではなく、大量の寄付金も準備し選手団を支えようとしました。
田畑政治が熱心に指導し、強くなりつつあった水泳競技の際には、プールサイドが大勢の日系人で埋まったほどです。
当時、アメリカでの対日感情は悪化しています。
満州侵略が不当とみなされていたのです。
そんな中、日系人たちは周囲の冷たい目線を感じながら生きてゆかざるを得ませんでした。
五輪で日本人に声援を送ることで、彼らはそうした憂鬱を忘れることができたのです。
日本と五輪の関係は、こうした日系人の協力を抜きにしては語れません。
そんな中、西は贅沢な浪費家であるにも関わらず、馬術選手団会計を任されていました。
それも彼の貴公子としての態度、華やかさゆえ。
彼は到着すると、気前よくタキシードを選手全員分注文しました。
西のポケットには、銀のボトル入りの高級ウイスキーが入っています。
当時は禁酒法の時代であり密造酒が飲まれておりましたが、西の口には合わなかったのです。
馬術選手の練習は午前中のみ。
午後になると、西は自動車で颯爽と出かけてしまいます。
ハンサムで颯爽とした西に、女性たちが熱い目線を送っておりました。
西の部屋には、ひっきりなしに女性から電話が掛かってきていたのです。
その中には、ハリウッド女優も含まれていましたし、西がその誘いを断るはずもありません。
西の遊び相手は、女優ばかりではありません。
他国の選手ともにこやかに交流するその姿は、ひときわ目立つものでした。
馬術とは、ヨーロッパ貴族の技芸であったもの。
現在でも、イギリスの競馬界では王族が馬主となり、着飾って観戦することもしばしばあります。
競馬場とは、貴族社交の場であるのです。
そういったヨーロッパ人からすると、日本の競馬場はあまりに庶民的で驚いてしまうほどだとか。
西は、こうしたヨーロッパ的な馬術の美意識にも合致しておりました。
騎手が華やかに遊んで何が悪いのか。
貴族的に社交界へ出入りしてこそ当然だという、そんなダンディーな美意識が、西にはぴったりとあてはまっていたのです。
流暢な英会話をこなす西は、こうした社交において何の障害もありません。
ハリウッドの名優たちとすら交流を重ねます。
友人であるダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードの夫妻とも、一年ぶりに再会を果たしたのでした。
派手好きの西は、ラスベガスのカジノで大金をすってしまったこともあります。
日本に送金を求めたものの、一度目はともかく、二度目は断られてしまいます。
それでも西は、借金をしてしのいだのでした。
西のこうした自由奔放で西洋貴族のような振る舞いは、生真面目な日本人からすれば苦々しいものであったことでしょう。
しかし、だからこそアメリカ人、特に女性からは熱視線を送られたわけです。
日本への感情が世界的に悪化する中、彼は憧れの貴公子「バロン・ニシ」でした。
我々は、勝った
昭和7年(1932年)、8月14日、午後4時――。
ロサンゼルス五輪は、最終日、馬術競技を迎えていました。
日本の馬術競技は、さしたる期待はありません。団体戦負傷欠場により不参加が決定しています。あとは個人競技のみです。
この競技でも、入賞候補者すら調子を出せず、失格者もあり、まだ結果が出ていません。
馬を比較しても他国よりも小さく、苦戦は必至でした。
日本陸軍の栄誉が掛かったこの競技。
最年少の西に、重圧がのしかかってきます。
西はヨーロッパ転戦の実績も短く、さほど期待されておりませんでした。
その日、西は朝食を取り終えると、ウイスキーを銀のボトルから一口飲み、送迎車に乗りました。
走行距離メーターに1が揃っている様子を見て、ついていると感じたようです。
この日の「大障害飛越」競技は波乱模様。
西の前に走った9選手のうち、完走者は僅か3名のみでした。
障害馬術とは、難しいものなのです。
馬は人よりも神経質であるとすらされています。
大観衆の興奮と熱気で、馬の駆け足が乱れてしまったのかもしれません。
競技開始――。
小旗がさっと振られ、ウラヌスの巨体が障害へと向かってゆきます。
さっと障害を飛越したその人馬一体の姿を見て、これはいけるかもしれない――そんな期待感が広がってゆきました。
西が激しく鞭を入れると、ウラヌスは巨体であざやかに障害を飛び越えてゆきます。
減点につながるミスがあると、観客席からドーッとざわめきがあがります。
皆、この人馬に感情移入していたのでしょう。
ウラヌスが障害手前で止まってしまった際には、観客席からは悲鳴があがったほど。それでも人馬はへこたれずに、障害に再度向かいクリアしたのでした。
人馬が最後の障害を越えてゴールすると、万雷の拍手が響き渡ります。
得点は、減点8。この時点で1位です。
このあと、優勝候補も競技をしたものの、西とウラヌスの得点を上回ることはありません。
完走者たった5名という、激戦でした。
「優勝者は、バロン・ニシ、ジャパン!」
場内放送が響くと、歓声がどっと沸き上がります。
のちに東京五輪招致に尽力する田畑も、この西の快勝に感動した一人でした。
控え室で記者団に囲まれた西は、短くこう応えます。
“We won.”(我々は勝った)
この短い言葉を、日本人は大日本帝国である我々が勝利したと解釈しました。
一方、他国ではウラヌスと西が勝利したと解釈しております。
西はどういうつもりで語ったのか、このときは付け加えておりません。
ただこのあと、「勝てたのはウラヌスのおかげだった」と語ることがあったとか。つまり「ウラヌスと自分が勝った」の解釈が正解に近いのでしょう。
西は最も魅力的な日本人紳士として、時代の寵児となったのです。どんな大金を積んでもウラヌスを買い取りたいという申し出もありましたが、西は断りました。
しかし、祝賀については断りません。
馬術競技団の祝賀会すら、ハリウッド女優たちと日夜パーティに明け暮れ、ついに参加しなかったのだとか。
名優スペンサー・トレイシー、ロバート・モンゴメリー、チャーリー・チャップリンも、祝いの席に駆けつけます。
パッカード社からは、記念の高級車が贈呈されました。
海を挟んだ日本では、妻子が喜び「パパ万歳!」と感動の声をあげております。
こうした出来事が、次から次へと起こったのです。
アメリカ、ドイツといった国からも西の優勝を祝いたいとの声があがったほど。
政治家や外交官をさしおいて、西は世界中で最も人気があり、知名度が高い日本人紳士となったのでした。
一度帰国しかけながらも、またトンボ返りしてまで祝賀会に出席したほどですから、まさに並外れたパーティー好きです。
帰国後も、西の大歓迎ムードは止まりません。
ロサンゼルス五輪で成績を残した日本人選手の中で、最も熱狂的な歓迎を受けた時代の寵児――。
それこそが、西竹一でした。
西はNHKラジオでは、しおらしく優等生的な原稿を読み上げております。
皆様の応援あっての優勝であると、彼は語ったのです。
大人気の反面、彼には冷たい目線も注がれました。
西のような日本人離れした奔放さ、華やかさは、必ずしも受け入れられるものではありません。
露骨にあんな馬術は邪道だと罵る軍人や、反発戸嫉妬を見せる者もおりました。
西が漏らしていた、ウラヌスしか自分をわかってくれないという思いも、うなずけるものがあります。そして……。
ベルリン五輪での奮戦
時代の寵児となった西は、だんだんと陸軍の中で浮いてゆきます。
軍人は短髪にすべきでしたが、西は長く伸ばしておりました。これだけには留まりません。
派手なパッカード車を乗り回す。
優雅に仕立てた軍服を颯爽と着こなす。
新橋を飲み歩き、喧嘩すらする。
モーターボートに仲間を乗せて、釣りやクルージングに出かける。
自宅に外国人を招待。正月ともなれば、出入りの業者や近所の住民を自宅に招いて大騒ぎ。
皇族の竹田宮恒徳王と親しく交際。
騎兵教官としても、人気がありました。
彼は厳しく指導するものの、自分の持ち馬を惜しみなく貸していたのです。
こうしたあまりに天真爛漫で自由闊達な振る舞いは、陸軍上層部からすれば疎ましいものでした。イメージ戦略に利用される一方で、西は煙たがられていたのです。
西は、次のベルリン五輪を見据えておりました。
目標は国産馬での好成績です。
ウラヌスはもう老齢であり、出場はできません。西は国産の牡馬アスコットを訓練し始めました。
このころから、西はどこか暗い予感を覚えていたのでしょうか。
財産を自分の代で使い切ってしまうかもしれない、金がないと周囲に漏らし始めていました。
昭和11年(1936年)、二・二六事件発生――。
その翌月、西を含めた日本馬術選手団は、ベルリンへと出発するのでした。
この選手団の雰囲気も、前回とは違っています。
馬術選手団の一部が華やかに遊んでいると、対立が起こったのです。前回の華やかさとは違うものがありました。
このとき、日本はある目標を抱いておりました。
それは東京での五輪開催です。
かなり無理のあるこの計画の成功を、西もベルリンの宿舎で聞いていました。
ドイツは寒波に襲われております。西はひどい風邪を引いてしまいました。他の選手は感染を恐れ、看病すらろくに受けられません。
40度近い高熱を薬で下げて、西はアスコットとともに「総合馬術」競技初日に挑みます。
50名中34位という結果は、彼に衝撃を与えました。
少なくとも20位には入っていると思っていたのです。
二日目は、果敢な追い上げで11位まで追い上げます。残った日本人選手は、西一人でした。
池の中で転倒し、泥まみれになりながら戦い抜いた人馬。
リタイア続出、死亡する馬すら出た中で、12位という成績は西にとって手応えのあるものでした。国産馬でもここまで活躍できると確信したのです。
閉会式直前、西が前回金メダルに輝いた「大障害飛越」が始まります。
17歳という高齢のウラヌスは、老いには勝てず冴えないところがありました。
前回から参加国も大幅に増えています。4カ国12名から、18カ国54名にまで達していたのです。
この競技で三選手全員完走を成し遂げられた国は、七カ国のみでした。日本は六位入賞を果たしたのです。
しかし、前回の栄光が念頭にあったのか、日本に帰国しても歓迎はされません。
このときの大スターは、女子二百メートル平泳ぎで金メダルを獲得した、前畑秀子でした。
それでも、西自身は武子に「悔いは無い」と語っています。
熱はあったけれども、人馬とも好調で、ベストを尽くした。そう考えていたのです。
西としては、周囲が残念そうに熱のことを持ち出し、憐憫の情を見せることが気に入らなかったのです。
軍部の接し方は、労るような、慰めるような微妙なものでした。
「ドイツの選手を勝たせるために、西は手を抜いたのでは?」
そんな事実無根の噂すら、当時はあったほどです。
ベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』をめぐり、西は軍部と対立します。
この映画には、西がアスコットとともに障害の沼にはまり、泥まみれになりつつ奮闘する場面が映っていたのです。
醜態を晒さないで欲しいと、軍部はカットを依頼しました。
このことに西は反発したのです。
人馬ありのままの苦闘を見せてこそではないか、彼はそう考えたのでしょう。
西と軍部の対立は、ベルリン五輪後深まってゆきます。
西は、騎兵学校で参加国も増えた中での6位入賞は、決して恥ずべき結果ではないと主張しました。前回よりも参加選手も増えた中です。
さらに西は、こう続けます。
「イタリア式だ、ドイツ式だとこだわらずに、人馬一体となるべく、一分でも長く乗ること。それが人馬一体となるためには肝要なのです」
これは、方式にこだわらずに自己流の馬術を鍛錬してきた西としては、実感のこもった教えと言えます。
しかし、騎兵学校幹部とすれば批判にも受け取れる発言でした。
彼の自由奔放な振る舞いは、陸軍から煙たがられていました。しかしそれも、ロサンゼルス五輪の金メダリストという利用価値があれば、見逃されて来たのです。
ベルリン五輪でメダルを獲得できず、騎兵学校を批判する西。彼はもう、軍部にとっては輝きを失った存在であったのかもしれません。
西は、母国開催の東京五輪でも自分は活躍するのだと思っていたのでしょう。
しかし、そうはなりません。
満州チチハルの第一師団騎兵第一連隊に配属されることになったのです。
武子には「よくないことばかりするから、たたって飛ばされたよ」と語っていた西。
その内心には無念が詰まっていたのでしょう。泥酔し、ものに八つ当たりする姿が目撃されています。
西は、東京五輪はどうなるのかと絶望したことでしょう。
しかし、このときはまだその五輪そのものが水泡に帰すとは予測できないはず。
幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)が中止になったのは本当に戦争のせい?
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西は馬術家から、大尉に戻りました。
人馬一体の人生を送ってきた彼にとって、それは本分に戻るというよりも、本質を忘れなければならないことであったのかもしれません。
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