絵・富永商太

飛鳥・奈良・平安

陵墓発見?女帝と女帝に挟まれたエアな舒明天皇の死後に起きたこと

舒明天皇の墓が見つかった!!

NHK※現在はリンク切れ)

おおー!すげえ!もんげー!

で、誰?

という人がほとんどではないでしょうか。

推古天皇と皇極(斉明)天皇という二人の女傑、いや女帝に挟まれた飛鳥朝の天皇(第34代)。

13年間(629~41年)も在位していながら、国史大辞典では以下のように低評価であります。

在位中に第一回遣唐使の派遣(二年)、唐使の来朝(四年)、百済宮および百済大寺の造営開始などのことがあったが、大臣蘇我蝦夷・入鹿父子の全盛期に際会し、さしたる事蹟を残すことなくして十三年十月九日崩じた

葬儀は「百済の大殯(もがり)」とよばれるほど盛大に行われて、滑谷岡(なめはざまのおか)という現在は場所不明のところに葬られました。

その後、皇后皇極天皇の時代に、押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)という奈良県桜井市忍阪にある上円下方墳に改葬されたと見られています。

今回見つかった一辺50~60メートルという同じ村内の石舞台古墳(蘇我馬子の墓か)に匹敵する大きさと推定されている方墳が滑谷岡の陵だと、発掘した奈良県橿原考古学研究所は仮定しているのです。

舒明の死後、時代は645年【大化の改新】へと突き進むわけですが、それ至るまでにどんな時代の流れがあったのか見ていきましょう。

絵・富永商太

※2017年3月1日に同研究所が新たに一辺が70メートルになる、石舞台古墳を超える規模の古墳と判明したと発表し、小山田古墳(おやまだこふん)と命名されました(参考:朝日新聞

 


3つの勢力が水面下で激しく争う

600年代前半、聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇による三頭体制は、それぞれの死によって崩れていきました。

3人の中で次世代にうまく権力を移譲できたのは馬子だけ。

聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、推古の死後(628年)に舒明と即位を争いましたが、父の聖徳太子に続いて天皇になることができません。

推古も、本当は後を託したかった息子の竹田皇子は、彼女よりも早く死んでしまっていました。

一方、馬子が持っていた大臣(おおおみ)の座は、死の直後に息子の蝦夷(えみし)にきちんと譲られたのです。

結果、3人で分けていた権限のかなりの部分が蘇我氏に集中することになり、次ぎの舒明は「さしたる事蹟を残すことなく」なったのです。

グーグルマップに加筆

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バランサー舒明の死で時代が動き出す

三頭の最後、推古が死んだ後もしばらくは微妙なバランスを保っていました。

641年10月、エア天皇・舒明が崩御しますと、一気に情勢が動き出します。

翌年1月、舒明の妻の皇極が即位。

推古以来2人目の女帝誕生となりました。

天皇の死後すぐに後継者が決まらなかったのは、非常に緊迫した舞台裏があったからです。

当時、年齢順に山背大兄王(聖徳太子系)、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)(蘇我系)、中大兄皇子(舒明と皇極天皇の息子)の計3人の「大兄」 (おおえ)が皇位継承候補でした。

3系統のいずれを選んでもほかの2系統が反発することは必至。

そこで皇極が「中継ぎ」として選ばれたとされます。

しかし、皇極の次の中継ぎはもういません。

女帝の誕生は逆に3人の皇位継承者とその支持者を「相手をやらなければ、こちらがやられる」状況に追い込むことになりました。

飛鳥王朝までの天皇は、複数の候補から基本的に年齢の高いものが選ばれる年功序列が大原則でした。3人の中で年齢的に最有力は、聖徳太子の子・山背大兄だったのです。

そこで、古人大兄を推す蘇我入鹿(いるか/馬子の孫)が先手を打ち、山背大兄を襲撃し、山背大兄は一族道連れで自殺するという事件が起きました。

事件を聞いた入鹿の父で現職の大臣の蝦夷は「大ばかものめ、自分の命も危ないぞ!」と激怒したと、日本書紀は伝えています。

父から叱責されても、入鹿は満足したことでしょう。

古人大兄がこれで名簿順位第1位になったのですから。

 


なぜ蘇我氏は親戚である皇族を滅ぼしたのか

ところで、滅んだ山背大兄も、蘇我氏がパトロンの古人大兄も、実はいずれも蘇我馬子の孫です。

なぜ、同じ一族でありながら、聖徳太子系を認めることができなかったのか? というのは古代史の大きな謎です。

筆者は、聖徳太子系と蘇我氏は、政治の重要な方針で大きなずれがあったのではないかと考えています。

最大のものは外交です。

500年代前半の継体(けいたい)天皇の時代に、朝鮮半島の友好国・加耶(かや、任那=みまな)を新羅(しらぎ)に奪われて以来、新羅に対して聖徳太子系は常に攻撃的で、かたや蘇我氏は現実的で融和的な外交路線を主張してきました。

蘇我氏が考える理想の天皇像とは、頑固で政策の衝突が不可避な聖徳太子系ではなく、人柄のよい、つまりコントロールしやすい古人大兄だったというわけです。

とにかく、ここで3系統のうち1つが消えました。

残る2つ、天皇系vs蘇我氏系による最終決戦は、645年の改新のクーデタに持ち越されます。

 

蘇我氏は本当におごり高ぶっていたのか

当時の様子をえがく日本書紀は、蘇我氏の専横を異常なまでに強調しています。

蘇我氏をおとしめるために後付けで大げさに書かれた可能性もありますが、このとき入鹿がかなり慢心していたことはたしかでしょう。

もともと年功序列の大原則から10代の中大兄皇子(皇位継承順位3位)が即位する可能性はほとんどありませんでした。

継承者の最年長で一歩先んじていた山背大兄王を排除したことにより、蘇我氏の推す古人大兄皇子が次期天皇となることはほぼ確定。

あとは現天皇の皇極女帝が死ぬのを待つだけです。当時は終身制ですから。

日本書紀を見てみると、たとえば、蝦夷と入鹿は自分たちの墓をつくり、大陵・小陵と呼ばせたとあります。

「陵」とは天皇の墓にのみ使うことを許された言葉。生前に墓を作ることも天皇だけの特権でした。

さらに朝廷や皇族に仕えるはずの民を自分のものにしたり、本来、天皇だけの特権である八ツラ《やつら》 (ニンベン+八+月)の舞を行ったりしている、と非難しています。

だが、本当なのでしょうか。

八ツラの舞については、舞が成立したのは後世のことで、飛鳥時代にはまだ成立していなかったという研究もあるくらいです。

また、陵墓を作ったことや民を「奪った」ことについては、もしかしたら蘇我氏のためではなく、天皇に「内定」した古人大兄のためだったのかもしれません。

今回見つかった巨大な方墳も、この「大陵」の可能性があります。

実際、NHKニュースでは白石太一郎・近つ飛鳥博物館長が「蘇我蝦夷のではないか」とコメ ントしていました。

同時に、古人大兄の生前暮(寿陵)だった可能性も高いでしょう。

天皇だけに許された特権ですから、次期天皇に確定している古人大兄の墓なら問題なかったはずです。

日本書紀は、山背大兄一族の滅亡など蘇我氏の横暴があまりにひどかったためにクーデタが起きたと、明快に「蘇我氏対皇族」という二項対立で説明しています。

しかし、実態は「三つどもえ」であったことは今、説明してきた通りです。

実際、「聖徳太子系」山背大兄の事件に関わったのは、蘇我氏だけでなく、大化の改新というクーデタ後に天皇となる軽皇子(後の孝徳天皇)も参加していました。

この時点では、蘇我氏と皇族(聖徳太子系をのぞく)の2派は連合していたのです。

645年、いよいよ大化の改新の年を迎えます。


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