つまり中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、蘇我入鹿を殺し、蘇我蝦夷が自害へと追い込まれた日となります。
この蘇我氏親子って、歴史の授業でも悪役として描かれがちですよね?
例えば『日本書紀』でも蘇我蝦夷・入鹿についてボロクソに書いていて、そうした影響も強そうですが、では実際はどうだったのか?
蘇我氏の悪行とはどんなものだったのか?
当時を振り返ってみましょう。
祖父は馬子で父は蝦夷 本当にやりたい放題?
蘇我入鹿は飛鳥時代の豪族で、大臣を務める一族に生まれました。
父は蘇我蝦夷で、やはり大臣。
権力を握った彼等は驕り高ぶり、こんなことをしたと伝わっております。
・由緒正しい場所(高宮)に祖先の廟を建て、天子にしか許されない舞を行った
・自分たちの墓を国民大動員で作らせ、天皇家にしか許されない「陵」という名称で呼ばせた。またその工事で聖徳太子の一族の領民も使役した
・皇極天皇の跡継ぎに、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を推挙し、対立候補である聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を【入鹿の独断で】攻め滅ぼした
・自分の家を「宮上の門」と呼ばせ、子供たちを「皇子」と呼ばせた
結果、こうなります。
自分が天皇になったつもりか!?
↓
そんな横暴な蘇我氏は滅ぼされて当然だよね!
↓
中大兄皇子が入鹿グサッ!(645年 乙巳の変)
とまぁこんな流れなわけですが、これはクーデターで勝った側の補正が多分に入っているでしょう。
倒した相手は悪人のほうが都合がいいですからね。
蒸米(645)で祝う大化の改新ではなく
実はクーデターを起こした側、藤原氏の歴史書には「帰国した僧の私塾で入鹿が一番優秀でした」と書かれており、賢い人物であったことはまず間違いないようです。
山背大兄王攻めにしても同じく藤原氏の書に「軽皇子ら反山背派が共謀してやりました」と書いてありますし、他の項目に関しても近年は擁護意見が多数あります。
また聖徳太子の行った政治に関しても聖徳太子1人が行ったワケでなく、蘇我氏と聖徳太子が共同で行った政治とする見方もあり、極端な説では「聖徳太子は実在せず、太子のやった政策を行ったのは蝦夷と入鹿」とするものまで!
どうでしょう?
入鹿の悪行が全てねつ造とは言いませんが、かなり盛られている感が伝わったでしょうか?
ざっくりまとめると「入鹿ちゃん、大臣の地位でちょっと調子に乗っていた」程度の悪人であったと考えられます。
よって今回は少なめの★2つ(日本史ワル査定の過去記事)。
入鹿という名前は本名ではなく、後のヒトがつけた蔑称だそうです(諸説有り)。
蛇足になりますが、私が日本史を習った時代は645年に蘇我入鹿が殺された事件が『大化の改新』でした。
現在は事件そのものは【乙巳の変】とされ、変の後で行われた政治改革が【646年大化の改新】になっているのがいささかショックです。
悪人度 ★★☆☆☆
影響力(権力)★★★★★
名前がおかしい度★★★★★
イラスト・文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【参考】
国史大辞典
海音寺潮五郎『悪人列伝 古代篇 (文春文庫)』(→amazon)
蘇我入鹿/wikipedia
現代ビジネス(→link)