舒明天皇の陵(もしくは蘇我蝦夷の墓)説のある明日香村の未知の巨大古墳の発見に合わせて、3回にわたり集中連載してきた<舒明天皇とその後の飛鳥朝>ですが、いよいよクライマックスです。舒明の息子中大兄皇子(天智天皇)による蘇我氏の暗殺、大化の改新のクーデター(乙巳の変)となりました。
1回目「陵墓発見?女帝と女帝に挟まれたエアな舒明天皇の死後に起きたこと」
2回目「舒明天皇の死後になにが起きた?大化の改新をプロデュースした黒幕の存在」
3回目「「韓人が蘇我入鹿を殺した!?」捏造された大化の改新の謎と真相」(この記事)
正義の味方中大兄皇子が悪の蘇我氏を滅ぼすというストーリーになっていますが、実際はこれまで見てきたとおりに、様々な勢力の思惑がひしめき合っていた「戦争」でした。さらには、本物の「戦争」も背景に絡んでいたのです。
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仕組まれた朝鮮半島からの使節訪問
中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足によるクーデタ決行のXデーは、6月12日と決まりました。この日は朝鮮半島の3国(高句麗、新羅、百済)からの進上物を、舒明の妻で中大兄皇子の母である皇極天皇が受け取る「三韓の調(みつき)」の儀式が行われ、暗殺対象の大臣(おおおみ)蘇我入鹿も参列することがわかっていたためです。
この頃、入鹿は身の周りの空気に異変が生じているのを感じ取り警戒心を強めていました。しかし、3国の使節が一堂に会する場に、天皇に次ぐ最高位の大臣である自分が出席しないわけにはいきません。
あまり言われていませんが、実はこの儀式自体もクーデタのために仕組まれたものだった可能性も高いのです。
この時期、半島では戦争勃発間近だったので朝鮮3国はしきりに飛鳥王朝に使節を送っていました。ところが、3国が同時というのは前例がありませんでした。敵同士の国々が同一行動をとることも不自然です。
もし儀式が偽りのものだとすれば、後述するようにさまざまな謎も解明するのです。
さらに言えば、クーデタの計画を皇極も知っていた可能性が高くなります。
もし彼女が計画を全く知らなければ、儀式の主役の天皇をないがしろにした、不敬極まりないことになってしまうからです。しかし、天皇本人が陰謀を知っていたら話は別です。
皇極と(前回黒幕認定させていただいた)軽皇子(のちの孝徳天皇)の姉弟の思惑は合致していました。姉の皇極は自分の後には実の息子の中大兄に天皇になってほしかった。そのためには、蘇我氏がバックにつく、年長の古人大兄皇子が消えて欲しかったのです。
弟の軽皇子も自分が天皇になれるチャンスを狙っていました。古人大兄を排除しても、19歳の中大兄が即位するには若すぎます。中大兄が適齢期になるまでの中継ぎという名目ならば天皇になれるかもしれないと考えたのです。
それぞれの思惑が雨となって降り注ぐ
この日は朝から冷たい雨が降っていました。飛鳥王朝の宮殿「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」(舒明時代の宮殿「飛鳥岡本宮」の真上に建て直されたと見られています)の正殿に皇極が出御し、その隣には次期天皇に内定していた古人大兄が座りました。
入鹿は剣を持って入ろうとしましたが、入り口でクーデタ一派が用意した俳優《わざひと》(宮廷のお笑い芸人)が言葉巧みに剣を外すように進言すると、笑いながら従ったと日本書紀は記します。
おそらく「入鹿様のような方でもきっと外国の使節の前では剣を持たないと怖いのでしょうね」などとプライドをくすぐるやり方であったのでしょう。こうした心理的な駆け引きは、直情的な行動が目立つ中大兄・鎌足コンビが段取りしたとは考えにくい。やはり黒幕に年長の軽皇子が糸を引いていたのではと思わせます。
入鹿の気迫におされ暗殺部隊動けず
入鹿をはじめとする群臣がずらりと並ぶ中、3国からの上表文を読み上げたのは、だれであろう前回、あの内応を約束した石川麻呂でした。
シナリオでは、石川麻呂が上表文を読み始めるのが合図となって、すぐに2人の刺客が飛び出して入鹿を斬ることになっていました。しかし、彼らは入鹿の気に押されて動けなくなってしまったのです。なかなか刺客が現れないことに、石川麻呂は「計画が失敗した」と焦り、声が震えてまともに上表文を読むことができなくなりました。
怪しんだ入鹿が「大丈夫か。なにがあった」と問いただすと「天皇を前に緊張しているのです」と、答えになっていない答えでかえしました。その瞬間、「タイミングは今しかない」と判断した中大兄は「やあ」と叫んで剣を抜くと自ら入鹿の頭と肩を斬りつけました。
この中大兄の瞬時の決断は、まさに歴史をかえた選択でした。
母親の天皇も予想外だった中大兄の凶行と謎の「韓人が殺した」の言葉
突然の襲撃に傷を負った入鹿は「私に何の罪があるでしょうか」と皇極の足元ににじり寄って叫びました。皇極も「いったいどうしたのですか」と驚きの声を上げます。
もし皇極が計画を事前に知っていたとしても、まさか中大兄本人が暗殺の実行犯になるとは想像もしていなかったはずです。聖職者でもある天皇の宮殿を血で汚すことは大きな罪だからです。それで当初は暗殺部隊を用意したのです。
「入鹿は山背大兄王をほろぼして自ら天皇になろうとしています。そんなことがゆるされるのでしょうか」
中大兄はこう言い放つと、皇極は何も言わず宮殿の奥に引き下がりました。その後、中大兄の部下がとどめの一撃を加えました。
斬殺された入鹿の死体は雨ざらしにされました。この凶行を目にした、入鹿がバックアップしていた古人大兄は自分の家に逃げ帰ります。そして家に引きこもってしまったのですが、この時の言葉は何とも謎めいています。
「韓人《からひと》が入鹿を殺した」
三韓の調にことよせて殺されたという意味だともされていますが、しっくりした解釈とはいえません。儀式自体がでっち上げだったとすれば、当然、各国の使節も偽物だったはずです。もしかしたら、暗殺者たちは、高句麗、百済、新羅の外交官に化けていたのではないでしょうか。その結果、もれた言葉が「韓人が入鹿を殺した」だとすれば、筋が通ります。
入鹿が剣を持ち込めなかったのだから、日本側の出席者も全員、武器を持っていなかったはずです。しかし、変装した中大兄や鎌足ら偽外交官たちは「外交特権」があるとして帯刀を許されていたのかもしれません。
中大兄らは宮殿に隣接する飛鳥寺に陣をはり軍備をととのえ、川を挟んだ反対側にある甘樫丘《あまかしのおか》の邸宅にこもる父親の蝦夷に入鹿の遺体を送り届け、最後の一戦に備えました。この時点では、父・蝦夷が健在で、まだどちらに情勢が転ぶかわからなかったのです。
しかし翌日になると、群臣が次々に中大兄の支持を表明し、その結果、孤立してしまった蝦夷は自殺。ここに蘇我本家は滅びました。このクーデタは、起きた年の干支をとって乙巳《いっし》の変とよばれています。
果実を得たのは軽皇子(孝徳天皇)という脇役
中大兄は勝利しました。だが、最大の功績者であるはずの彼が政権を握ることがなかった点は忘れてはいけません。
蝦夷が自殺した翌日、皇極は弟の軽皇子に譲位しました。
当初、皇極は自分の実子である中大兄に譲ろうとしましたが、中大兄は鎌足との相談の結果、軽皇子を推薦し辞退したとされています。
軽皇子は「年長の古人大兄がいるので、彼がなればいい」と言うと、入鹿を失い孤立無援の古人大兄は「私は出家します。軽皇子がなってください」と言って、その場で刀を外し、すぐに飛鳥寺にいってひげと髪をそり、袈裟《けさ》をかけて出家してしまいました。
「はい。では私が天皇になります」などととてもいえる空気ではなく、むしろ命の危険を感じたのでしょう。こうした気弱な性格だからこそ、入鹿が操りやすい天皇になれると考えてもり立てたのかもしれませんが。
そして皇位についたのは、軽皇子でした。「孝徳天皇」の誕生です。
黒幕をあぶり出すキーワードは、「一番得をしたのは誰か」。黒幕がだれかは明らかです。
日本書紀が隠す黒幕とは、事件がなければ皇位につく可能性がほぼゼロだった軽皇子とするのが、最も可能性が高いのです。
なぜこの時、中大兄は即位できなかったのか。2つの理由が考えられます。
1)19歳ときわめて若くてこの時点では即位する条件を満たしていなかったこと
2)聖域である宮中をみずからの手で血で汚した重大な罪を背負ったこと
特に暗殺の実行犯(現場指揮官だけならば問題はなかった)となったことは、後々まで引きずりました。中大兄がその後もチャンスは何度もありながら、なかなか即位できなかったのは、聖なる天皇にふさわしくない血で汚れた経歴があったからと言えるでしょう。
ちなみに中大兄について、日本書紀はクーデター後に「皇太子」となったと、あたかも論功行賞のように書いていますが、そもそも皇太子という制度は後世になってできたもの。当時の近い制度といえば「大兄」。もともと大兄だったのだから、ある意味なんの変化もなかったのです。いえ、それどころか大きな十字架を背負うことになりました…。
東アジアのあちこちで勃発したクーデター
古代史を大きくかえた大化の改新のクーデター(乙巳の変)ですが、仮に中大兄皇子、中臣鎌足、そして黒幕の軽皇子がいなくても、こうした事件はおこっていた可能性は高かったのです。真の黒幕は、一人の個人の思惑を越えた世界的な時代の潮流でした。
日本列島の枠をこえて東アジアに目を向けてみましょう。当時の世界情勢を見ると、大化の改新がおきた理由を別の面から知ることができます。
当時、中国の唐帝国は東西南北の国境線を広げるため、東アジアでは朝鮮半島を手中にしようという野望をあらわにしていました。
唐の野望にはげしく「化学反応」した高句麗、新羅、百済の3国は、つぎつぎと国内でクーデタや粛清を起こし政界を再編していました。唐の強大化に対抗できるようにと、強固な政権を樹立するのが目的です。
高句麗では642年に大臣の泉蓋蘇文《せんがいそぶん》が高句麗王の栄留王《えいりゅうおう》を殺害。
百済でも同じ年、義慈王《ぎじおう》が親族などの反対勢力を追放し、権力を握りました。
新羅でもやはり647年に反乱がおきています。
こうして東アジアという広い視野で眺めると、飛鳥王朝でのクーデタも時代の流れだったことがすんなりと理解できるのではないでしょうか。
聖徳太子の時代から続く「天皇」「聖徳太子系」「蘇我氏」の三つどもえの政争と、唐に対抗するために各国で起きた政界再編のドミノ倒し。この2つの視点を加えたとき、大化の改新の真相に迫ることができるのです。
恵美嘉樹(日本古代史作家)・記
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