西行法師

西行法師/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

平安時代の名僧・西行法師「ブッダと同日に死ぬ」と詠み一日ズレる?

歴史上の有名な僧侶というと、一般的には質素倹約で生真面目な人を想像しますよね。

もちろん中には「おいおいおい」とツッコミたくなるような方もいて、例えば百人一首には恋の歌がたくさん納められており、その中に僧侶が詠んだものも含まれたりします。

実際に僧侶が恋愛をしていたわけではなく、歌だけのお話なのでそういうことも認められていました。

ただ、中には、結構生々しくエロスを漂わせている歌もあったりして……。

お坊さんといえど人間ですから人情もありますし、恋心の予測くらいはついたんでしょう。

一方で、世の中には慈悲の真逆を行った名僧もいます。

2月15日に西行忌のある西行法師です。

西行庵(善通寺)

西行庵(善通寺)

 


釈迦入滅の日が2月15日で西行は16日?

西行の生まれは1118年。

家系は、藤原北家の中でも武闘派として知られる藤原秀郷(平将門の乱を鎮圧した人)の子孫にあたります。

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出家前の俗名は藤原義清(佐藤義清・名は「のりきよ」と読む)でした。

彼自身、若い頃には検非違使や、鳥羽院で北面の武士をしていたこともあったのです。貴族ではなく武家と言えますね。

現代では僧侶や歌人として知られます。

そんな西行の中で最も著名な歌がコレ。

願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

釈迦入滅の日である2月15日に死ぬことを望み、そしてその通りになった。

ゆえに本日2月15日は『西行忌』というワケなんですが、実は微妙なズレがありまして。

西行が実際に亡くなったのは文治六年(1190年)2月16日なのです。

もっとも釈迦入滅の日も15日だか16日だかよくわからず、曖昧なところがあります。

もしかしたらこんな微調整をしなくても、両者の命日が合致していた可能性もありましょう。

ここは、西行の意を汲んだ人々が「この日にお弔いをしてあげよう」と決めた深イイ日といった方が良さそうです。

 


吉野山のヤマザクラ

あらためて歌を見ますと……。

願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

この場合の「花」とは「桜」のことです。

旧暦の2月ですので、新暦に置き換えるとほぼ3月半ばになり、ちょうど桜の咲く頃合だったというわけですね。

現代では「桜」というとソメイヨシノですが、これは江戸時代に出てきたものです。

西行が指したのは、おそらくヤマザクラでしょう。

こちらは古くから奈良の吉野山に植えられていましたので、都出身の西行は間違いなく知っていたでしょうから。

吉野の桜

現に、東北の平泉を訪れた時に束稲山の桜をみて、こんな歌を残しています。

聞きもせず たわしね山の 桜ばな 吉野の外に かかるべしとは(山家集)

【意訳】吉野の桜のほかに、こんなにすごい桜あるなんて、聞いてないよ!

意訳がダチョウ倶楽部状態で申し訳ありませんが、まぁ、吉野の桜に対する驚きがわかりやすく迫ってきますよね。

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