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【高岳親王】
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「天竺(インド)へ行くしかない!」
普通の人ならそこで諦めて帰国するところ、既に死を覚悟しているような高齢の高岳親王はそう思わなかったようです。
「唐で師匠を得られないなら、仏教発祥の地である天竺(インド)へ行くしかない!」と、ポジティブすぎる発送の転換を行ったのです。
高岳親王は、唐の皇帝に許しを得て、マカオと香港の間の湾を入ったところにある広州から、海路で天竺を目指しました。
これが貞観七年のこの日のことだといわれています。出港したのは中国だったんですね。
しかし、その後、高岳親王を乗せた船の行方はわからなくなってしまいました。
一説には、現在のマレーシアに流れ着き、出発から16年経った元慶五年(881年)に亡くなったともいわれています。
阿倍仲麻呂と同じような晩年ですが、どのような気持ちで過ごしていたのでしょう……。
「虎に襲われて亡くなった」という説もあるので、そうでないことを祈りたいところです。
高知の清瀧寺、そしてマレーシアのジョホールバルに墓地
高岳親王のお墓に値するものは、少なくとも二カ所あります。
ひとつは高知県土佐市の清瀧寺にある「高岳親王塔」です。
唐へ向かう途中に土佐に立ち寄ったことがあり、その徳の高さに惹かれたこの地の人々が建てたものとされています。
戦後県指定の史跡になりましたが、立ち入りが禁止されており、調査は行われていません。
遺骸や棺があるわけではないので、宮内庁からはおkが出そうですが、昔から地元の人も立ち入らないようにしているそうですので、難しいでしょうかね。
ちなみに、清瀧寺には「逆修塔」というものもあるそうです。
これは生前に自分を追善供養する塔で、同じく立入禁止になっています。
察するに、高岳親王塔も、もしかしたら親王本人が生前に作ったものなのかもしれません。清瀧寺は古い歴史を持つお寺ですし、何か記録があればいいのですが。
もうひとつは、マレーシアのジョホール・バル日本人墓地の一角にあります。
ここに伝わっている説では、高岳親王は唐を出港した後、この地に流れ着いて病気で亡くなったということになっています。
高野山親王院から石材が送られ、現地に立派な供養塔が建てられましたのは1970年のことでした。
ジョホール・バル日本人墓地は、普段施錠されているため、気軽にお墓参りができるというわけではないようです。現地日本人会に連絡すれば、お墓参りできるかもしれません。
ご本人の日記なり、現地の記録なり、何か足跡がハッキリするような文書が今後見つかることに期待しましょうか。
その折には改めてご冥福をお祈りしたいものです。
1000年以上前の方なので、既に成仏されてそうですが……あるいは仏教の輪廻で、何回か転生しててもおかしくないかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
JOHOR日本人会(→link)
四国八十八ヶ所霊場会(→link)
世界大百科事典
高岳親王/wikipedia
高岳親王塔/wikipedia
清瀧寺_(土佐市)/wikipedia
※1 真如親王供養塔(碑文)
高野山親王院の開基真如親 王は平城天皇の第三皇子 高丘親王なり。嵯峨帝の儲たりし後落飾して弘法 大師の法資となる。大師入定の後支那に渡って佛道 を修学すること三年さらに佛教の玄底を盡さんと して咸通六年一月二十七日廣州を船出して印度に 赴くの途次ジョホールに於て生年六十七を一期に 遷化す。嗚呼法を求めてあらゆる艱難に堪遂に 志を果たすに至らず遠く異域に遷化されたる悲運 を偲び爰に恩師尭榮和上宿願に任せ供養の寶塔を 建立するものなり。
JOHOR日本人会(→link)より引用