Q. 室町幕府の三代将軍・足利義満が行った重要な功績を三つあげなさい
すぐにパッと思いつきました?
いささか曖昧な設問かもしれませんが、答えは
あたりが正解となるでしょう。
南北朝統一(南北朝時代)については以下の記事がございますので、
南北朝時代の始まりは鎌倉時代の両統迭立から~では終わりは?
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今回は【勘合貿易】を見て参りたいと思います。
足利義満がかなりこだわって始めた「明」との交易。
応永8年(1401年)5月13日に僧侶や博多商人を派遣したことがキッカケで始まり、これが意外に面白いのです。
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倭寇が跳梁跋扈して勘合が登場
勘合貿易は、一言で申し上げるとこうです。
「室町時代に行われていた日明間の貿易」
しかし、時が経つに従って、いくつかの問題が出てきました。
【倭寇】と呼ばれる海賊が、荷物と乗組員の命をぶんどるだけにとどまらず、詐欺まで働くようになっていたのです。
これではいくら輸出入を頑張っても商売になりません。
海賊は現代のあっちこっちでも起きている問題であり、そのために軍が出動したりしていますね。それだけ稼ぎやすい悪さなのでしょう。
そこで当時、こんな解決方法が考え出されました。
お互いに「正規の取引相手だ」ということを証明するため「勘合」という一種の割札を作ったのです。
どんな取引形態だった?
取引の中身としては、以下のような三つの形態を内包していました。
◆進貢貿易
勘合貿易は建前上、「室町幕府が明王朝に朝貢する」という形になっていました。
「朝貢」とは、中国に対して他の国が貢ぎ物をする代わりに、王様として認めてもらい、傘下に入ることによって互いにメリットを得る、というものです。
中国には伝統的に「ウチの国が世界で一番豊かでエラくてスゴイ国なんだぞ!」という「中華思想」があり、外交というよりは朝貢で他国とのお付き合いをしていました。
つまり、日本から明への輸出は「明に献上する品物」、明から日本への輸入品は「明国皇帝が日本に下賜する品物」ということになっていたわけです。
ついでにいうと、明に限らず中国の歴代王朝は力と富を誇示するため、朝貢を受けた物品以上の量・価値を持つ物を輸出していました。
こんな調子で近現代までやってこれたのですから、大陸の豊かさがうかがえますよね。
「平地がたくさんあって気候も比較的温暖なところが多く、大河や海で大量輸送もしやすい」という、中国の地形的優位性も非常によく見てとれます。
品目はざっと以下のとおりです。
【室町幕府→明政府】
・太刀(日本刀)
・槍
・硫黄
・瑪瑙(めのう)
・金屏風
・扇など
※主に武器や工芸品、鉱石です
【明政府→室町幕府】
・白金
・絹織物
・銅銭など
◆公貿易
字面から誤解しやすいのですが、公的機関が行う貿易ではなく、”公”に認められた商人が行う貿易、と考えるとわかりやすくなります。
もっと簡単にいえば、遣明船の経営者や、同乗することを認可された商人たちによる取引でした。
日本からは染料に使われる蘇芳(すおう)の木や、銅・硫黄・刀剣類が輸出され、その代金として明から銅銭と絹・布が支払われたといいます。
◆私貿易
上記二つに当てはまらない、寧波(ニンポー)や北京などで行われた貿易です。
遣明船に乗っていった日本の商人が、これらの都市や沿道で生糸や絹織物をはじめ、糸・布・薬種・砂糖・工芸品・調度品を購入し、日本へ持ち帰りました。
私貿易を行う商人は、遣明船の使用料として、輸入品金額の1割を幕府に収めるという決まりがありました。
結構な金額ですが、それ以上に儲かったので、支払いを渋る商人はいなかったようです。
元値の4~20倍は儲かった
こんな感じで、建前や字面は固いものの、結構自由にあっちこっちで取引。
利益率の細かい数字は不明ですが、明で絹糸を買って日本で売ると、20倍もの値段がつくこともあったといいます。
ヒャー! 濡れ手に粟ですね~。
まぁ、危険性があるからの価格なんでしょうけど。
むろん物品によって倍率は変わり、だいたい元の値段の4~20倍は儲かったとか。
実際には経費が引かれますので、もっと少なくなりますが……それでもかなりの利益になります。
義満が何十年もかけて折衝を重ねるほど、貿易に執着するわけですね。
足利義満の剛柔使い分けた政治・外交・軍事手腕が凄い!室町幕府三代将軍の実力
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もともと義満は博多商人から
「明と商売するとボロ儲けできますよ^^」(意訳)
と聞いて貿易をしようと考えたそうですから。
それでも、形式上・かつ幕府だけとはいえ、朝廷の中には「明の傘下になる」という点に難色を示す人も少なくありませんでした。
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