足利義満/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代

勘合貿易は利益20倍で義満ウッハウハ!そりゃあ倭寇も暗躍するわ

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本日はちょっと趣旨を変え、参考書っぽい質問から始めてみましょう。

Q. 室町幕府の三代将軍、足利義満が行った重要な功績を三つあげなさい

すぐにパッと思いつきました?

いささか曖昧な設問かもしれませんが、答えは

南北朝統一
・金閣寺(鹿苑寺金閣)の建立
勘合貿易の開始

あたりが正解となるでしょう。

南北朝統一(南北朝時代)については以下の記事に詳しくありますので、今回は【勘合貿易】を見て参りたいと思います。

南北朝時代をスッキリさせよう! 鎌倉時代に始まる両統迭立ややこし物語

は ...

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足利義満がかなりこだわって始めた「明」との交易。
これが意外に面白いのです。

世界図屏風/国立国会図書館蔵

 

倭寇が跳梁跋扈して勘合が登場

勘合貿易は、一言で申し上げて
室町時代に行われていた日明間の貿易」
です。

しかし、時が経つに従って、いくつかの問題が出てきました。

【倭寇】と呼ばれる海賊が、荷物と乗組員の命をぶんどるだけにとどまらず、詐欺まで働くようになっていたのです。
これではいくら輸出入を頑張っても商売になりません。

海賊は現代のあっちこっちでも起きている問題であり、そのために軍が出動したりしていますね。それだけ稼ぎやすい悪さなのでしょう。

そこで当時の日本と明は、別の解決方法を考えました。

お互いに「正規の取引相手だ」ということを証明するために「勘合」という一種の割札を作ったのです。
正直これだと、海賊に物理的強行手段で襲われたときに対応しきれないはずなんですけど、その辺どうしたんでしょうかね。

わこうの船/国立国会図書館蔵

 

どんな取引形態だった?

取引の中身としては、以下のような三つの形態を内包していました。

◆進貢貿易

勘合貿易は建前上、「室町幕府が明王朝に朝貢する」という形になっていました。
「朝貢」とは、中国に対して他の国が貢ぎ物をする代わりに、王様として認めてもらい、傘下に入ることによって互いにメリットを得る、というものです。

中国には伝統的に「ウチの国が世界で一番豊かでエラくてスゴイ国なんだぞ!」という「中華思想」があり、外交というよりは朝貢で他の国とのお付き合いをしていました。

つまり、日本から明への輸出は「明に献上する品物」、明から日本への輸入品は「明国皇帝が日本に下賜する品物」ということになっていたわけです。

ついでにいうと、明に限らず中国の歴代王朝は力と富を誇示するため、朝貢を受けた物品以上の量・価値を持つ物を輸出していました。
こんな調子で近現代までやってこれたのですから、大陸の豊かさがうかがえますよね。

「平地がたくさんあって気候も比較的温暖なところが多く、大河や海で大量輸送もしやすい」という、中国の地形的優位性も非常によく見てとれます。

品目はざっと以下のとおりです。

室町幕府→明政府
・太刀(日本刀)・槍・硫黄・瑪瑙(めのう)・金屏風・扇など
※主に武器や工芸品、鉱石です

明政府→室町幕府
・白金・絹織物・銅銭など

◆公貿易

字面から誤解しやすいのですが、公的機関が行う貿易ではなく、”公”に認められた商人が行う貿易、と考えるとわかりやすくなります。
もっと簡単にいえば、遣明船の経営者や、同乗することを認可された商人たちによる取引でした。
日本からは染料に使われる蘇芳(すおう)の木や、銅・硫黄・刀剣類が輸出され、その代金として明から銅銭と絹・布が支払われたといいます。

◆私貿易

上記二つに当てはまらない、寧波(ニンポー)や北京などで行われた貿易です。
遣明船に乗っていった日本の商人が、これらの都市や沿道で生糸や絹織物をはじめ、糸・布・薬種・砂糖・工芸品・調度品を購入し、日本へ持ち帰りました。

私貿易を行う商人は、遣明船の使用料として、輸入品金額の1割を幕府に収めるという決まりがありました。
結構な金額ですが、それ以上に儲かったので、支払いを渋る商人はいなかったようです。

 

元値の4~20倍は儲かった

こんな感じで、建前や字面は固いものの、結構自由にあっちこっちで取引。

利益率の細かい数字は不明ですが、明で絹糸を買って日本で売る20倍もの値段がつくこともあったといいます。
ヒャー!濡れ手に粟ですね~。まぁ、命の危険性があるからの価格なんでしょうけど。

むろん物品によって倍率は変わり、だいたい元の値段の4~20倍は儲かったとか。
実際には経費が引かれますので、もっと少なくなりますが……それでもかなりの利益になります。

義満が何十年もかけて折衝を重ねるほど、貿易に執着するわけですね。

もともと義満は博多商人から
「明と商売するとボロ儲けできますよ^^」(意訳)
と聞いて貿易をしようと考えたそうですから。

それでも、形式上・かつ幕府だけとはいえ、朝廷の中には「明の傘下になる」という点に難色を示す人も少なくありませんでした。

 

四代・義持の代で中断 六代・義教で再開する

義満の息子である四代将軍・足利義持の頃になると、若干、風向きが変わります。

「勘合貿易はさすがに費用がかかりすぎるし、朝鮮や琉球と中継貿易にすれば良くない?そうすれば朝貢にならないし」
そんな声が強まり、一旦明との貿易は中断されます。

しかし、結局は利益の大きさが優先され、六代将軍・足利義教の頃に復活。
義教というとドギツイ話のほうが多いだけに、ちょっと意外な感じもしますね。

応仁の乱以降は、無駄な身内争いのせいで幕府も遣明船の費用が賄えなくなり、裕福な商人に貿易を代行させるようになりました。

商人にとっても命がけなわけですが、莫大な利益を目的に引き受けていたようです。

やはり、いつの時代も世の中、お金なんですなぁ。
そもそも日本国内で流通させる銅銭を輸入している段階でそういうお話でもあるんですが。

また、文明十五年(1483年)に派遣された遣明船は、大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたため、収益の一部が朝廷に献上されたとか。
もはや幕府のためだけでなく、朝廷の財政に余裕を持たせるためにも、明との貿易は欠かせないものになっていた……ともとれます。

他には、管領家の一角・細川氏なども大々的に日明貿易を行っていました。
「そんな余力があるならとっとと応仁の乱を終わらせておけばよかったのに……」とツッコミたくなってしまうのは、平和を尊ぶ現代人の思考ですかね。

 

勘合→日明→朱印船

この辺りから、時系列としては戦国時代に入ります。

上記の通り、大内氏が特に大規模な貿易をしていたのですが、大内義隆が痴情のもつれをきっかけに滅ぼされた後にちょっとしたトラブルが起こります。というのは……。
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