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【壇ノ浦の戦い】
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平家の主だった将たちは次々と海へ
義経軍は東(瀬戸内海)から向かってきたので、平家軍はこれを彦島から迎え撃つ形になりました。
船の扱いには平家に一日の長があったため、序盤は義経軍が苦戦。
しかし潮の流れが変わり、義経軍を後押しするように波が動き出すと、これに乗じて平家方の船に乗り移ることができました。
その後は、当時禁じ手とされていた「漕ぎ手や船頭を射ったり斬ったり」して、制圧にそう長い時間はかからなかったようです。
海戦で船が動かせないのではどうにもなりません。
ですから、この時点で平家の主だった将たちは次々と海へ身を投げたといわれています。
これまた平家物語の有名な場面【先帝身投】はこのあたりです。
清盛の妻・二位尼が安徳天皇を抱きかかえ…
先帝とは、この時点で廃位同然の状態だった安徳天皇(清盛の孫)のこと。
このときは平家の女性達と同じ船に乗っていました。
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そこへ平家軍の実質的な大将だった平知盛がやってきて、「これから珍しい東男をお目にかけましょう」と笑ったそうです。
生きるか死ぬかの瀬戸際というときに、同じ武士でありながら「東国の者だから」という理由で見世物扱いするというのはなかなかのブラックジョークですね。
とはいえ女性達にとっては「もうすぐここに源氏軍がやってくる」=死の宣告ですから、いよいよ覚悟を決めなくてはなりません。
清盛の妻・二位尼(にいのあま)は安徳天皇を抱きかかえ、三種の神器のうち天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を身につけました。
まだ6歳の安徳天皇には事の次第がわからず、「尼よ、わたしをどこへ連れて行くのか?」と尋ねたそうです。
さすがに二位尼も全てをそのまま話すことはできず、「波の下にも都はございます。ご案内いたしましょう」と答え、そのまま海へ身を投げたといわれています。
長い髪を熊手に引っ掛けて建礼門院を引き上げた
このとき安徳天皇の母・建礼門院も入水しました。
しかし彼女は源氏軍によって命を助けられ、母子連れ立っての旅立ちは叶いません。
このとき源氏軍は「長い髪を熊手に引っ掛けて」彼女を引き上げたそうです。ひでえことしやがるなぁ。
上記の通り、これは『平家物語』の表現なので、実際には波に打ち上げられたところを源氏軍が見つけただけかもしれませんけど……。
その後、平家方では男性も女性もこぞって海に身を投じ、後には平家の赤い旗と無人の船だけが残ったのでした。
まさに「おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」といった状態だったのでしょう。
……え?「赤い旗を紅葉に例えてるんだから、”春”をオチに持ってくるな」って? こまけえこたあいいんだよ。
実は建礼門院の他にも平家方でこのとき生き残った人がいたのですが、それはまた日を改めて見てみたいと思います。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
高等学校古典B平家物語/wikibooks
壇ノ浦の戦い/Wikipedia