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【義経を愛した女たちの不幸な最期】
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男児を産むも由比ガ浜に捨てられて…
静御前は同年閏7月に鎌倉付近で男の子を産みました。
が、非情にも、頼朝の命で由比ヶ浜に捨てられてしまいます。
当然、命は助かりません。
頼朝自身がかつて「幼いから助けてやって欲しい」と言われて助けられた身ですから、もし情けをかければいずれ牙を剥かれると考えたのでしょう。
一応、このときも政子は静御前に味方してくれたそうなのですが、さすがに叶いませんでした。
静御前の消息がわかるのは、出産から約二ヵ月後、母と共に京都へ帰ったところまでです。
そこまでは鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に書かれています。だから政子寄りの記述多いんだろう、とも言われていますが……。
その後はどこぞで入水したとか、もう一度義経を追おうとして客死したなどさまざまな説があり、定説と呼べるものはないようです。
共通しているのは「長生きはしていない」ということでしょうか。
いずれにせよ、母である磯禅師は悲しんだでしょうね……。彼女にしてみたら、娘にも孫にも先立たれてしまったわけですから。
義経自ら、郷御前と幼い娘に手をかける
さて、時間を遡って次は正室・郷御前のお話です。
静御前と異なり、彼女は義経にずっと従い、奥州までたどり着いたとされています。
逃亡劇が始まった直後の文治二年(1186年)に娘を産んでいたそうなので、産後の辛い時期に長旅をしていた可能性が高いということになりますね。
それほどタフな女性だったからこそ、義経も連れて行こうとしたのでしょうか。
しかし、義経が頼みにしていた奥州藤原氏に裏切られて襲撃されると、郷御前も幼い娘も無事には済みませんでした。
二人とも義経が自ら手にかけたとされているので、敵に殺されたり連れて行かれるよりはマシだったかもしれませんが……何ともいえない後味の悪さですね。
権力闘争の結果、敗者は家族と共に無事では済まないのが歴史の必然なんですけどね。
実は義経の正室だった郷御前~最期まで夫に付き添い娘と共に非業の死を迎える
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もう一人の妻・蕨姫(わらびひめ)とは?
ちなみに義経にはもう一人、平清盛の義弟・平時忠の娘である蕨姫(わらびひめ)という女性が嫁いでいたともいわれています。
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が、時忠が命惜しさに義経へ差し出したというサイテーな経緯だったためか、ロクに記録が残っていません。
しかも「適齢期の娘はまだ使い道があるから、行き遅れてたアイツでもやっとけ」みたいな感じだったらしく、父親からも夫からも大切にされたとは言えません。(´;ω;`)
見方によっては、この蕨姫こそ一番可哀相かもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』(→amazon)
静御前/wikipedia
郷御前/wikipedia
蕨姫/wikipedia