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【木曽義高】
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「義仲の息子も亡き者とすべし」
もはや木曽義高の存在価値はなし。
娘の大姫を嫁がせる意味はない。
むしろ仇として自分を狙うかもしれない――そう考えた頼朝は、非情の決意を固めました。
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「義仲の息子・義高も亡き者とすべし」
父の決心を、女房から密かに聞かされた大姫は、彼を助けようとすぐに動きます。
木曽義高に知らせ、女装をさせたのです。
その上で信濃の武士・海野幸氏を身代わりとさせ、義高を逃しました。
と言っても、当時まだ5歳か6歳であったと推測される大姫一人に、ここまでのことができるとは思えません。
おそらく母・北条政子の意志あってのことでしょう。
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しかしこれが頼朝の知るところとなり、追っ手が差し向けられると、義高は入間河原(埼玉県狭山市)で討ち取られてしまいました。
あまりのことに衝撃を受けてしまう大姫。
愛娘の深い嘆きをみて、政子は激怒します。
「たとえ命令を受けたにせよ、政子、そして大姫の断りもなく、清水冠者を斬るとは何事か!」
その場で義高が死に追いやられたのは追っ手の不始末であるとして、義高を斬った郎党・藤内光澄の処刑を迫ったのです。
『吾妻鏡』には「御台所の御憤(政子の激怒)」ゆえの処断であると記されていて、妻に折れた頼朝は彼女の要求を聞き入れざるを得ず、追っ手だった光涼は、斬首の上さらし首となったのでした。
静御前も訪れる
それにしても、なぜ政子はここまで手厳しい処断を下したのか。
詳細は不明ながら、政子は木曽の縁者に思うところがあったのでしょう。
その証拠に、事件の翌年、義仲の妹が鎌倉に送られてくると、政子は情けをかけるよう頼朝に訴え、頼朝も折れました。彼女は美濃国に遠山荘を与えられています。
一方で、大変だったのが大姫です。
夫となる予定の義高を父の一存で殺され、たとえ追っ手が処罰されても、その嘆きは一向に軽くなりません。
彼女は事件から約2年後の文治2年(1186年)、勝長寿院に籠もりました。
後年、そんな彼女を訪れたのが静御前です。
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その寵姫として知られた彼女は、同じく頼朝によって最愛の人を失った大姫と顔を合わせました。
北条政子を通じて交流があったのです。
静はこのあと、義経の遺児を産みます。
それが男児だったためすぐに殺され、失意の静は鎌倉を後にします。
政子と大姫は、静との別れを惜しんだと伝えられ、大姫は鬱々としたままの生涯を送り、入内も叶わぬまま短い一生を終えることとなるのでした。
亡き最愛の方として
義高は生年が確定しているわけではありません。
となれば死んだ歳も不明となるワケですが、現在で言えば中学生ほどの没年だったと推察されています。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で義高を演じた市川染五郎さんが、それよりかなり年長なのは、大姫の目から見た理想的な婚約者の姿だったのかもしれません。
過去の大河ドラマ、例えば2004年『義経』での木曽義高は、当時11-12歳だった子役の富岡涼さんが演じています。まだまだ子供と言える範疇です。
それが今年は歳上かつ美しい姿をしている――大姫や政子の心には、そう映っていた。
史実を考えると、大姫は成長するにつれ、義高との別れの傷が軽くなるどころか、重くのしかかってくる。
ドラマでもそこが描かれ、大姫を失った政子も、深い悲しみに沈みました。
彼女たちの目を通して浮かんでくる義高は儚く美しく、見ている者たちの心を抉りました。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
関幸彦『北条政子:母が嘆きは浅からぬことに候 (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
他