木曽義高

歌川芳虎が描いた木曽義高と大姫/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

婚約相手は頼朝の娘で父は義仲~なのになぜ木曽義高は無情に討ち取られたのか

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で木曽義仲が壮絶な死を迎えるだけでなく、それに負けず劣らず辛い最期となったのがその息子。

市川染五郎さん演じていた木曽義高であり、初登場のときから、彼の立ち振舞や佇まいがあまりに「美しい」として視聴者を驚かせました。

父がワイルドな武人であるのに対し、息子が儚い美少年とは一体なんなんだ――。

そして、あの悲惨な死に方は何なんだ?

許嫁だった頼朝の娘・大姫だけでなく、北条政子をも大いに嘆かせた、木曽義高の命日は元暦元年(1184年)4月26日のこと。

本稿で、史実の人物像を振り返ってみましょう。

 


清水冠者こと木曽義高

木曽義仲の長男である木曽義高。

その生まれは承安3年(1173年)とされ、母は中原兼遠の娘と推察されています。

兼遠は、家族ぐるみで義仲に仕えていて、その中には女武者として著名な巴御前もいました。

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他に二人の息子も義仲&義高親子に仕えており、彼らを支えた中原家をまとめるとこうなります。

◆木曽義仲&義高親子を支持する中原家

父:中原兼遠

息子:樋口兼光

息子:今井兼平

娘:巴御前

娘:木曽義高の母

上記の人間関係には諸説ありますが、間違いでなければ義高は彼らにとって孫や甥に当たるんですね。

名前は「義高」が最も有名であり、ドラマでも採用されていました。

ただし「義基」や「義重」「義隆」といった諱も伝えられ、ハッキリとしません。

 


頼朝長女のフィアンセに

治承4年(1180年)9月、父の木曽義仲が挙兵し、木曽から旅立ちました。

目指すは京都――戦いは連戦連勝と破竹の勢いであり、こうなるともはや敵は平家というより、同じ河内源氏の源頼朝がライバルとして浮上してきます。

彼らは従兄弟同士なれど、浅からぬ因縁がありました。

義仲の父である源義賢が、頼朝の兄である源義平に討ち取られていたのです。

源氏の身内争いはお家芸みたいなものですが、ともかく源頼朝は、木曽義仲にとって父、木曽義高にとって祖父の仇になる存在。

そんな先代たちの確執を繰り返さないようにするため、両者は和解の道を探ります。

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それが婚姻でした。

頼朝の娘・大姫と、義仲の子・義高が結ばせる。両家にとっては友好関係の楔となる。

かくして11歳の義高は鎌倉へ向かい、鎌倉に着くと、大姫の母である北条政子にも気に入られ、穏やかな日々を送りました。

しかしそれからわずか4年後の寿永3年(1184年)1月、事態が一変します。

義仲が討死するのです。

結局、頼朝との確執が解消されていなかった義仲は、源義経源範頼の軍と対峙し、これに敗れたのでした。

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