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【阿野全成】
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北条氏の姻戚となり実朝派に
実衣との結婚も、劇中では微笑ましい展開でした。
史実だけ見れば、源氏との関係強化を計る北条氏の野心と解釈できますが、ドラマでは淡い恋が実ったように描かれていた。
なぜ、そうした表現だったのか?
『鎌倉殿の13人』が、1979年の大河ドラマ『草燃える』からの脱却を目指していたからだと思われます。
『草燃える』での阿野全成と阿波局夫妻は、野心的な陰謀家でした。
史実では、二人の結婚後、全成より、むしろ実衣(阿波局)の方が目立つようになります。
建久3年(1192年)に阿波局は、頼朝と政子の二男・千幡(後の源実朝)の乳母となりました。
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時流次第では、源氏の跡取りとなるかもしれない貴重な男児。
乳母に選ばれることは名誉であり、その影響か、以降、全成の記述は「阿波局の夫」という立場で言及されるものが多くなっていきます。
しかしそのことが彼の死因にも繋がってしまうのですが……。
そもそも頼朝の在命中、彼の弟たちは、全成以外の全員が命を落としていました。
性格があまりに放埒で、政治的才覚に疎く、奥州合戦で追い詰められた義経。
身の処し方を知っていたにも関わらず、不運な展開から死を賜った源範頼。
こうした兄弟と比べると、全成は武功こそないものの、逆に失態もなく、かつ北条氏という後ろ盾もあって安泰でした。
しかし、その構図にヒビが入ります。
頼朝の死です。
景時が頼家に讒言!?
正治元年(1199年)正月――頼朝が急死しました。
二代目の鎌倉殿として、将軍職を継いだのが源頼家。これにより外戚同士の激しい対立が生じます。
初代・頼朝の外戚である北条氏は、頼朝の二男・千幡(後の源実朝)を庇護していました。
これに対し、二代・頼家の外戚となる比企氏。
外戚両家の争いに阿野全成も巻き込まれてゆくのです。
段階を追って見て参りましょう。
鎌倉幕府では、トラブルを未然に解消するため、ドラマのタイトルにもなった【十三人の合議制】が敷かれました。頼朝が死ぬと御家人たちの不祥事が増え、その対応に追われたからです。
この十三人のメンバーには梶原景時もいます。
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彼は頼家の乳母夫(めのとお)とされ、後見人でもある。つまり頼家の重要な側近として、睨みを利かせる立場にありました。
しかし、この景時を滅亡に追いやる陰謀が起こります。
あるとき、頼朝時代を懐かしむ結城朝光が、こんなことを口にしました。
「忠臣は二君に仕えずという。私も頼朝様が亡くなったからには、出家しようと思ったのだが、ご遺言によりそうもできなかった。今となっては残念でならん」
そんな朝光に対し、阿波局がこう進言します。
「あなたの発言が不忠だとして、梶原景時が頼家様に讒言したそうよ。このままでは危険です……」
情勢は極めて不安定で、何があってもおかしくない時代。
焦った朝光は三浦義村に相談しました。
すると「これぞ好機!」と感じたのでしょう。
義村は、景時を排除するため、御家人66人分の弾劾署名を集めました。
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いざ景時へ弾劾状が届けられると、彼は一切の弁明をせず、一族と共に本拠の相模国一宮へ退去します。
そして正治2年(1200年)正月、上洛の途上、駿河国狐ヶ崎で景時一族は討ち果たされたのでした。
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