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【八幡信仰&八幡神社】
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神道(八幡)と仏教(菩薩)を組み合わせ
このように、八幡神の活躍は数多くみられるものの、いくら奈良時代の歴史を紐解いてみても、応神天皇との関わりをしめす史料がまったくみたあらない。
奈良時代までは八幡神と応神天皇とは無関係だったとみてよい。
では八幡神が応神天皇と同一であると考えられるようになったのはいつのことなのか。
有力な仮説の一つとなっているのが、平安時代のはじめごろ、桓武天皇らが政治利用のために「八幡神=応神天皇」としたとする考えだ。
桓武天皇は794年、京都に都を遷した天皇として教科書にも登場する敏腕政治家。
おどろくべき「裏ワザ」で八幡神を強化することに成功している。
「八幡大菩薩」と名付けて八幡神を国家の守護神へと格上げさせたのだ。
「八幡大菩薩」は、「八幡=神道」「菩薩=仏教」の二つをミックスした合体ロボ。
当時は仏教も神道もごちゃまぜな神仏混淆の時代だったとはいえ、相当斬新なアイデアだったにちがいない。
仏と神の力が合わされば、国家の守護神として頼もしい。
パワーアップした八幡さまを国家の守護神にまつりあげた桓武天皇は、いったい何を目指したのか。
答えはなんと「新羅からの流民阻止」。
なんか拍子抜けするような、夢も希望もない話ではある。
「新羅人よ、日本に来ないでほしい!」
当時、朝鮮半島の新羅と日本とは正式な国交がなかった。
新羅で大飢饉などをきっかけに国力が低下すると、日本への流民が数多く発生。日本側はそれを抑制しようとするが、新羅の流民は海賊行為に及ぶようになった。
日本側は新羅人の流入を徹底して排除しようと画策する。
「新羅人よ、日本に来ないでほしい!」
そこで持ち出されたのが、神功皇后と応神天皇の母子を八幡様と称して、守護神として担ぎ上げることだったのだ。
神功と応神の母子が新羅への布石として担ぎ出されたのは、母の臨月中に朝鮮半島へ出兵したという逸話による。
日本の歴史書には、朝鮮半島の諸国を従えて凱旋したとあるように、新羅流民、海賊に苦しむ日本にとって、それに打ち勝つと考えられた人物だったのだ。
ただし、朝鮮半島での戦争中、応神天皇自身はまだ生まれてすらおらず、あくまで戦ったのは妊娠中だった母の神功皇后であることは先述したとおり。
八幡様はもともと神功皇后と応神天皇の親子だったが、いつしか応神天皇ばかりがクローズアップされてしまった、というのが真相だろう。
実際、宇佐神宮には、応神だけでなく、神功皇后もまつられている。
伝説に彩られた八幡様――その正体を突き止めることは相当困難だ。
今回紹介したのも有力な仮説の一つではあるが、研究が進み、八幡様誕生の秘密が明らかになる日も近いかもしれない。
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【参考文献】
恵美嘉樹『日本の神様と神社-神話と歴史の謎を解く (講談社プラスアルファ文庫)』(→amazon)
飯沼賢司『八幡神とはなにか (角川選書)』(→amazon)