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週刊武春 WWⅡ

原爆ドームの設計者から原爆開発科学者、投下した搭乗員もみんなチェコ人だった!

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今回の広島の原爆記念式典は、70周年という節目を迎えた事もあって各国のメディアが特集していました。

その1つがチェコ。広島の原爆ドームを設計したのがチェコ人だった事もあったようですが、実はそれ以外にも原爆とチェコ人には関わりが深かったのです。で、それを今のチェコ人は知らないらしい。

地元のプラハ・デイリー・モニターが報じています(2014年8月4日付け)。
地元のタイデンという週刊誌が発掘報道し、それを引用する形で報じています。
広島に原爆が炸裂したのは1945年8月6日午前8時15分。7万人が即死し、年末までに同じ数の人が亡くなられました。チェコ標準時では午前1時15分の投下。チェコ人が詳細を知ったのは8月8日。地元のCTK通信社が、ユナイテッド・プレス通信の記事を翻訳する形で紹介したからです。そして、自分達が原爆と少なからぬ関わりを持っていると知っていたのは少数でした。

あの原爆ドームの設計を手がけた建築家がチェコ人

原爆ドームを設計したヤン・レッツェル(Wikipediaより)

その1つが世界遺産に登録された原爆ドーム。元々はアール・ヌーボー様式の広島県の産業振興館として建設されたのですが、これを手がけたのがチェコ人のヤン・レッツェル(1880-1925)。ボヘミア東部のナーホトという街で生まれたレッツェルには、もう1つの顔がありました。20世紀初頭、ラウリン&クレメントという車を日本に輸出していたのです。そして、この車が当時の日本のエリートの間で人気があり、レッツェルの名前も知られるようになっていました。どうやら、その縁で招聘されたようですね。

建築時の写真。広島市の原爆ドームの説明HPより引用

 

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マンハッタン計画に参加したユダヤ系物理学者は原爆投下に苦しむ

その産業振興館を破壊する事になった原爆リトル・ボーイの開発をしたマンハッタン計画に参加していたチェコ人もいました。ゲオルグ・プラツェク(1905-1955)という物理学者。ブルノという街で生まれ、当時から有名な物理学者でした。上司のロバート・オッペンハイマーとは親友の間柄でした。2人は7月16日に行われた実験の観測にも立ち会っています。

ラジオ・プラハのHPより)

ユダヤ系として生まれたプラツェクは、近親者をナチスの強制収容所で殺されていました。その事を知った本人は、ナチスとの原爆開発競争に勝たねばならないと思うようになっていたようです。

それが原爆の早期完成に繋がっていったのですが、本人は1955年に変死。自殺したと考える人もいるそうです。ナチスがチェコを占領する前に親族を連れ出せず、広島と長崎の原爆投下で一般市民を殺してしまった事などで自らを責めてしまっていたのですって。

エノラ・ゲイの搭乗員の中にもいた

そして、最後の一人がジョー・スティボリック (1914-1984)。慎重な選考の末、エノラ・ゲイの12人の搭乗員となったのです。なお、エノラ・ゲイは長崎の原爆投下の際にも気象観測機として参加していますので、両方に関わったチェコ人になります。

sgt.stiborik

beserfoundation.orgのHPより)

当時の階級は軍曹。射撃手だったそうです。南モラビアのジュダール・ナト・サーザヴォウ出身の両親を持つスティポリックもチェコ生まれ。父親はアメリカでチェコ語の新聞の編集長を務めており、そのせいでチェコ語も堪能だったそうです。

副操縦士のロバート・ルイスともども、こう語っていたそうです。「おぉ神よ、我々は何て事をしでかしたのだ」(My god, what have we done?")。

広島出撃に際しエノラゲイの機長席から手を振るポール・ティベッツ大佐(Wikipediaより)

なお、この記事は複数のチェコのメディアに転載されていました。1人でも多くのチェコ人に、そして日本人にもこうした事実を知って欲しいですね。

南如水・記




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ヘッダー写真は原爆ドーム(Wikipediaより)

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