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シャルル=アンリ・サンソンの肖像画(イメージ)/Wikipediaより引用

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週刊武春 フランス

人類史で2番目に多くの首を斬り落としたアンリ・サンソン 心優しき処刑人の苦悩

更新日:

フランス語で「ムッシュー・ド・パリ」。
日本語にして「パリの旦那」といったイメージでしょうか。
まるでカフェでも経営しているオシャレな人を想像してしまうかもしれません……が、まったく違います。

「パリの処刑人」。
冗談ではなく、かつてヨーロッパには都市ごとに処刑人が存在しておりました。

彼らは歴史においては脇役に過ぎません。
覚悟を決めて首をさしのべる人物の横で、冷たい表情を浮かべて斧なり剣なりを持っている男です。一般の人々にとっては、できるだけ関わりたくない存在であり、それゆえ彼らは隔離地域に暮らすこともありました。

かつての斬首刑の様子/Wikipediaより引用

 

心優しく慈愛に満ち、死刑反対論者だったアンリ・サンソン

処刑人の家系は人々に忌み嫌われ、転職もできません。処刑人以外の家系の人物と結婚することも稀でした。
死刑制度がある限り存在する、必要悪としてのブラック労働なのです。
※ちなみに江戸時代の日本には、山田浅右衛門を名乗る家が処刑人一族として存在しました。

そんな歴史の暗部である処刑人ですが、目立つ脇役として数奇な運命を辿った人物もおります。彼は敬愛する国王や王妃を斬首したことで、歴史に名を残すことになったのです。

「ムッシュー・ド・パリ」のサンソン家4代目シャルル=アンリ・サンソン
彼こそが人類史において2番目に多く処刑をこなしたとされ、心優しく慈愛に満ち、かつ強固な死刑執行・反対論者でした。

はからずも歴史に名を残してしまった彼は、その人となりが伝わる珍しい処刑人です。

母国フランスはもちろんのこと、日本発のフィクションでも坂本眞一氏の漫画『イノサン』、ゲーム『Fate/Grand Order』に登場。
荒木飛呂彦氏の人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第7部「スティール・ボール・ラン」の主人公の一人、人間味あふれる処刑人ジャイロ・ツェペリのモデルも実は彼なのです。

今回は、そんなレジェンドの労働環境を取り上げたいと思います。

シャルル=アンリ・サンソンの肖像画(イメージ)/Wikipediaより引用

 

※なお公式記録で最も死刑を執行したのはドイツのヨハン・ライヒハートです(3,165人でアンリ・サンソンは約2,700人)。
漫画『Fate/Grand Order』や『聖牌戦争』著者のサテー氏より補足いただきました。この場を借りて御礼申し上げますm(_ _)m

 

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ちょっとした貴族並の生活水準ではあった

昨日、イギリスのブラック労働を記事にさせていただき、今回はそれに少し飛躍させてフランスです。
一応、前回の書式を踏まえ、処刑人のオシゴトを★で表現すると、以下のようなイメージぐらいでしょうか。

きつさ:★★★★★
汚さ:★☆☆☆☆
危険度:★★★☆☆

拷問や鞭打ちを行い、人の首を斬って、周囲から蔑まれる――この時点で、処刑人は職業として大変辛いことは想像できるかと思います。
技術面においても鍛錬が必要で、一撃で斬首できるよう心がけねばなりませんでした。

それだけ大変な仕事であれば、給与面は恵まれているのでは?
と思うかもしれませんが、これが非常に微妙で、処刑人に給与は支給されない代わりに、商人から売り物を税金として現物徴収する権利が付与されていました。

また、処刑人は人を処刑することを通じて、人体の構造を熟知するようになります。
そのため彼らには医者という副業もありました。

処刑道具のメンテナンス費用、見習い処刑人の世話等、出て行く出費もかさみますが、それなりの生活水準を保つことはできていたのです。

サンソン一族は、ちょっとした貴族並の暮らしができるほどの生活レベルでした。
しかし、これはあくまでフランス革命前までのことでした。

 

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ギロチン台がフランス革命時に考案された理由とは

3代目サンソンが担当していた1721年、処刑人の現物徴収権が廃止され、サンソン家の収入は大きく目減りします。

さらに1789年にフランス革命が勃発すると、処刑そのものの数が増えてコストが嵩み、家計は赤字に転落することになりました。
自由と平等が唱えられた革命では、処刑人一族もまた他の市民たちと平等であると認められるように……なったのですが、サンソンは素直に喜べません。

革命によって、彼が敬愛していた国王一家の権威が失墜していたからです。

崇高な理念から始まった革命は、やがて政治闘争と暴動へ発展。
血と死に慣れた処刑人すら目を背けたくなるような虐殺や暴力がフランス国内にはびこります。
革命当初は死刑制度に反対していたロベスピエールも、政治闘争の手段として暴力と殺人を必要悪として肯定するようになっておりました。

革命の理念である平等と人権の尊重は、処刑法をも変えました。
かつてフランスでは、貴族が剣による斬首、平民が絞首刑が基本。罪の重さに応じて、拷問を繰り返したあと馬で手足を引き裂く「八つ裂き」のような残酷な手段がとられることもあり――これを「斬首のみ」に統一したのです。

更に人権を尊重する観点から、失敗して苦痛が長引く可能性がある剣による斬首をやめて、ギロチンが採用されました。

フランス革命から約3年半後の1793年1月21日、このギロチンについに国王16世が登ることになりました。
サンソンは一睡もできないまま、処刑の日を迎えます。

フランス革命のときに考案されたギロチン台/Wikipediaより引用

 

愚鈍ではない……勤勉で慈悲深さも備えたルイ16世

サンソンは国王と面識があり、その人柄に敬愛を感じていました。

フィクションの影響からか、無能で趣味にかまけた愚鈍な暗君とされることも多いルイ16世ですが、実際は勤勉かつ慈悲深さを備えた善良な王であり、革命前までは人気もありました。
彼が革命を止められなかったのは、ルイ14世と15世の浪費で財政破綻していたことが大きいでしょう。

国王をギロチンに送り込む側の理屈はこうでした。

「確かにルイ・カペー(ルイ16世の退位後の名)は悪い男じゃない。だが本来主権とは庶民にあるもので、王とはその主権を簒奪しているのだ。王政そのものを裁かねばならない」

処刑賛成派と反対派の意見は拮抗。しかし、僅差で賛成派が勝利し、国王処刑が決まったのです。
なにも国王を殺さなくてもよいのではないか……と思う市民は数多くいましたし、王党派と呼ばれる活動家たちは断固として処刑に反対でした。

処刑当日、血の気の失せた顔でサンソンは待ち続けました。
勇敢な王党派の活動家たちが、国王奪還に訪れることを。奇跡が起きて、国王が救われることを。
しかしそれは叶わぬ願いでした。

サンソンは王の首の上にギロチンの刃を落とし、血の付いた首を群衆の前に掲げました。このときサンソンは、誰にも見られないように、国王の血にハンカチを浸しました。

ルイ16世の処刑の様子/Wikipediaより引用

皮肉なことに、かつて試作品のギロチンを見た時、サンソンに対し「刃を斜めにした方がよく切れるだろう」と助言をしたのはルイ16世です。
彼は自身の意見により、改良された刃で斬首されてしまったのです。
そしてサンソンはこのあとも多くの人々を処刑することになります。

威厳に満ちた王妃マリー・アントワネット
心優しく、天使のように善良なルイ16世の妹・エリザベート王女。
大勢の貴族。
科学者。
革命の闘争に敗れ去った政治家。
「処刑されればあの世で夫に会える」と、おしゃれをして軽い足取りでギロチン台に上る政治家の未亡人。
不運なめぐりあわせで杜撰な裁判に巻き込まれ、死刑判決を受けた少女。
……と、その数、実に2700人ほどにのぼったのです

 

フランスよ、死刑制度を廃止してくれ

サンソンはストレスのあまり、耳鳴りや幻覚、手の震えに悩まされました。
何百人も斬首し続けるため、助手の確保やギロチンのメンテナンスにも金がかかり、家計も火の車です。それでも先祖代々のつとめをサンソンはこなさねばなりませんでした。

およそ2700名を処刑した4代目サンソンがようやく引退できたのは、恐怖政治が終わりを迎えた1794年の翌年、1795年のことでした。

4代目サンソンは人間味にあふれ、心優しい人でした。
革命と恐怖政治の時代、死刑執行を決めた政治家は憎まれ、彼ら自身もまたほとんどが処刑されることになりました。

しかし、サンソン自身の死を望む声はまったくあがりませんでした。
むしろ遺族たちは、死の直前まで死刑囚に優しく接し、希望をかなえてあげたサンソンに感謝の念を示すほど。

サンソンはルイ16世の血のついたハンカチを家に持ち帰り、僧と修道女に頼みこみ、国王のためにミサも行っています。

当時はカトリック信仰すら否定されていた時代です。しかも処刑した王のミサです。
発覚すれば死の危険があるにも関わらず、カトリック信仰がナポレオンによって認められるまで、10年ほどにわたりサンソンは秘密のミサを続けました。

そんなサンソンの夢は、フランスが死刑制度を廃止することでした。
冤罪の人を殺さないために。犯罪者にも立ち直る機会を与えるために。そして、自分たちのような社会から蔑まれる処刑人一族を生み出さないために。死刑制度は廃止されるべきだと、生涯願い続けたのです。

彼の願いがかなったのは1981年。
サンソンの死から150年後のことでした。

シャルル=アンリ・サンソンの肖像画(イメージ)/Wikipediaより引用

 

「わが生涯に一片の悔いもなし!」とでも言いたげな堂々とした態度

サンソンが2700人という膨大な人数を処刑する羽目になったのは、フランス革命という政治が混乱した時期に生まれたことが最大の原因でした。
ただし、これだけが原因とは言えません。

サンソンにとってかつての恋人であり、ルイ15世の寵姫であったデュ・バリー夫人も、彼によって処刑された一人です。
処刑に際して取り乱し泣き出す彼女を見て、サンソンはこう思います。

「誰もが皆、彼女のように泣き叫んでいたら、こんなにも処刑されなかっただろうに……」

革命で処刑された人々は、「わが生涯に一片の悔いもなし!」とでも言いたげな堂々とした態度で斬首されていきました。

しかし、処刑が剣によるものであれば、誰しも堂々としてはいられなかったことでしょう。
時間がかかり、失敗することもあります。ギロチンのように決してうまくはいきません。
革命に生きた人々の堂々たる態度、そしてあまりに便利に斬首できてしまうギロチン。この二つが人の斬首刑を簡単なものにして、処刑を加速させてしまったのです。

ギロチンは苦痛を長引かせたくないという、純粋な善意から導入されました。
処刑前に人々が胸を張っていたのも、処刑は楽だとアピールしたいわけではありません。人間の尊厳を保つためでした。誰も効率よく人をたくさん斬首しよう、なんて思っていなかったのです。善意が結果的にそうなってしまっただけです。

処刑人という仕事は存在そのものが社会の必要悪であり、きつい究極のブラック労働です。
それをさらに歴史的なまでに過酷なものとしてしまったのは、善意と効率化が要因としてありました。
よかれと思って取り入れたシステムが、かえって事態を悪化させる。フランス革命期を生きた処刑人サンソンからは、そんな教訓が得られることでしょう。

文・小檜山青

【そして時を経て…続編記事】

処刑人失格――あのサンソンの孫アンリ=クレマン・サンソン、処刑人を罷免される

【参考】

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