信長公記

於久地城の戦いに忍者の血筋登場?戦国初心者にも超わかる『信長公記』第41話

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今回は信長の美濃攻略の合間に起きた「於久地城(小口城)の戦い」です。

相手は身内。
今川義元を討ち取って約2年が経過し、着々と地盤固めを進めていてもなお、まだ尾張に獅子身中の虫になりそうな勢力がいるのですから織田信長もシンドイ。

いい加減に仲直りすれば?
と現代人なら思うかもしれませんが、そうは簡単に呑み込めない事情がありました。

 

斎藤氏と手を組むなど許すまじ

永禄五年(1562年)6月下旬、織田信長は於久地城(小口城・愛知県丹羽郡)へ出陣しました。
犬山城の支城にあたります。

※黄色が信長の本拠地・清州城で、赤色が於久地城(小口城)

犬山城の城主は、信長のいとこ・織田信清です。
前述のとおり、今回もまた親族との戦いになります。

なぜまた身内との戦を始めたのか?
というと、深いような浅いような経緯がありました。

岩倉城の織田信賢(元・尾張上四郡の守護代)が息子に追放された後、その領地をどう分配するかで、信長と信清はいがみあっていたのですが……そのうち、信清は斎藤氏と手を組んで信長に対抗しようとしはじめたのです。

いわずもがな、斎藤氏は当時の信長にとって最大の敵。
そんな相手と身内が手を組もうとしているのですから、信長にとってはたまったものではありません。

そのため、支城である於久地城を攻めることになったというわけです。

 

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「甲賀五十三家」と呼ばれる忍者の家系

近所かつ身内ということもあってか。
この戦では、信長の小姓衆や若衆が多く参加していたらしいことが、信長公記には書かれています。

まず小姓衆が城壁を打ち破り、数時間激戦を繰り広げた……とされています。

もちろん信長軍にも、犠牲者が出ております。

中でも若衆の一人・岩室長門という人物の戦死は、信長以下多くの人に惜しまれたといいます。

「長門」は通称で、正式な名前は岩室重休(しげよし)といいました。
彼の父についてはハッキリしておらず、岩室重利、あるいは岩室宗順だとされています。宗順の通称が「長門守」だったようなので、後者の可能性が高いでしょうか。

その場合「甲賀五十三家」と呼ばれる忍者の家系の一員ということになります。

重休が若衆だった、ということは見目が良いほうだったでしょうし、それで忍者の家系というとまるで漫画か小説のようですね。

忍者と信長の関係については、もうしばらくしてから触れる機会があるので、そこでまた詳しくお話しましょう。

 

正面から落とすのが難しいならば……

重休の他にも十数名の負傷者が出ていること。
於久地城が落ちたのはもう少し後であること。

そうした点から考えると、このときの戦はどちらが勝者とも敗者ともいい難い結果に終わったのでしょうね。
信長公記でも、あまり詳細には書かれていません。

正面から落とすのが難しいならば、それなりに下準備や計略が必要になります。

兵糧攻めや城下への焼き討ち。
内通者を作る――など、いろいろやり方がありますが、次に信長が取った下準備は、いかにも彼らしい奇抜なものでした。

どんな作戦だったのか?
続きはまた次回。

長月 七紀・記

※信長の生涯を一気に読まれたい方は
コチラの記事→織田信長
をご一読ください。

なお、以下にも戦国武将列伝がございます。




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