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まんぷく立花福子モデル・安藤仁子(まさこ)92年の生涯「武士の娘の娘」は史実なれど……

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投獄の苦労

当時は、戦後復興真っ盛り。
それまでの生きる目標を失った若者たちにも、焼け野原だらけの日本にも、新たな目標が必要でした。

そんな昭和22年(1947年)。
百福は名古屋において「中華交通技術学院」を設立。自動車や鉄道の技術を学べる学校でした。背後には佐藤栄作の力もありました。

学ぶ学生は、在日中国人と日本人双方で、百福は学費給付制度を始めています。

この年には、夫妻の長男・宏基も誕生。
同時に百福は栄養食品の研究も進めており、食用ガエルを圧力釜で煮詰めておりました。

圧力釜での実験には失敗したものの、産後で体力が落ちていた妻にカエルを食べさせ、栄養をつけられたと満足していたそうです。
優秀な病院食として、厚生省(現厚生労働省)からも認められております。

百福は、牛や豚の骨を用いたペースト状の栄養食品「ピクセイル」を売り出します。
食品加工への第一歩を踏み出したわけです。

例えばこの時期、百福はラーメン店の前で並ぶ人の姿を見て、こんなにも麺類が好まれるのかと印象に残ったのだとか。

百福の事業は拡大してゆきました。
学費給付生もどんどん増えていきます。GHQの軍人家族とも交際し、夫妻はダンスを習い始めたとか。

安藤家には、多くの客が出入りするようになりました。
宏基一歳の誕生日は、それはそれは盛大なものであったそうです。

従業員も増え、もう仁子や須磨だけでは回りません。
家事手伝い要員も雇用しました。

経理は須磨が、パチパチと算盤をはじいてきっちりと管理。
安藤夫妻はもはや従業員の親代わりです。

恋愛相談を持ち込まれ、親身になって答えたり。
アルコールにカラメルを加えて、イミテーションウイスキーのようなものを作ったり。
おつまみは沖合で取れる魚でした。

羽振りがよく、若者が大勢出入りする安藤家。
それを快く思わなく人がいたのでしょうか。誰かが見張っていることがあったようです。

昭和23年(1948年)。
百福は突如、学費給付が脱税のための隠れ蓑とみなされ、逮捕されたのでした。
しかも、一週間という裁判で、GHQ軍政部は重労働四年という判決を下します。

財産が差し押さえられる中、仁子は母の須磨とともに池田市の借家に引っ越し。
財産すら差し押さえにあう中、生活費はため込んだへそくり頼りでした。心細い仁子を支えたのは、須磨の強い励ましと言葉でした。

「不満があっても、鯨のように飲み込むのです」
須磨はそう言い、どっしりと落ち着いていました。

臨月だというのに、仁子は巣鴨プリズンまで面会に向かいます。しかし、面会時間はあっという間に過ぎゆくだけ。

そして昭和24年(1949年)、長女・明美誕生。

当時、GHQは厳しい徴税策を行っておりました。
百福の逮捕にも、そうした一環があるのでしょう。

百福は税務当局を相手に、処分取り消しを訴えることにしました。六人の弁護団を組織し、正義のために戦うことにしたのです。
収監から二年が経過しようとしていました。

明美は満足に栄養も摂取できず、歯もなかなか生えそろいません。
そんな明美を抱えた仁子が涙ながらに訴えると、百福の心も揺らぎます。

このへんでよいのではないだろうか――弁護団はこのまま戦えば勝てると言うものの、百福は迷いました。

妻子のためにも、長引きそうな訴えを取り下げたのです。
直後、彼は釈放されました。

 

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浮き沈みの中、慈母を目指す

巣鴨プリズンから釈放された百福は、知人から誘いを受けます。

「新しく作る信用金庫の理事長になってくれまへんか」
何度も頭を下げられ、百福はその気になります。暮らし向きは華やかなものとなったのです。

百福は妻子そっちのけで、ゴルフと宝塚歌劇にのめり込みました。
お気に入りは乙羽信子だったとか。

乙羽 信子/wikipediaより引用

【関連記事】宝塚歌劇団の歴史

須磨は、二人の孫の面倒が生きがいでした。
仁子は、文楽と映画が家事の合間の楽しみとなりました。『腰抜け二挺拳銃』といった映画の劇中歌を口ずさんでいたそうです。

文楽は、人形遣いに若いころの夫によく似た人がいたのだとか。
巣鴨から戻ってきた百福は老け込み、白髪だらけになっていたのです。

 

穏やかな暮らしの中で、仁子には信仰心が芽生えています。
浮き沈みの多い人生を振り返り、穏やかな信仰に生きたくなったのでしょうか。

彼女は日帰りの巡礼を繰り返すようになります。

仁子は信心深い性格で、無神論者の百福とは正反対でした。
よくお守りを配り、観音様を祀り、慈母に守られていると信じていたのです。いつしかそんな仁子本人こそが慈母ではないかと、社員からささやかれるほどでした。

仁子は何か嫌な予感があったのかもしれません。

昭和32年(1957年)、信用金庫は杜撰な経営がたたり、破綻。
百福は名義貸しだけで満足せず、経営にも関わっていました。

税務署から差し押さえがやって来ます。
仁子と須磨は通帳や証券類を身につけ守り抜きました。

布団に隠すこともあったほどです。

そんな妻や義母の苦労があったにも関わらず、翌朝になると百福は悠然とした顔で食卓にいる。そんな日々が続いたのでした。

 

チキンラーメンに掛ける再起

もはや戦後ではない――。
時代は、復興期を過ぎようとしていました。

しかし、大阪府池田市に暮らしている安藤家は、そんな流れから取り残されたようなものです。

ちなみに2003年朝の連続テレビ小説『てるてる家族』には、百福と仁子をモデルとした安西千吉と節子が登場します。
舞台となった時代の池田市に住んでいたからです。

それまで百福周辺にいた人々も、破産によって散ってゆきます。またしても、沈み込む人生でした。

そんな中、百福は日本一のラーメンを作ると言い出します。

ラーメン店を経営するのかと聞かれると、そうではないと答える。
当時のラーメン店主は、引き上げて来たり、借金があったりした人が、借金して買った屋台を引っ張るという、そんなイメージがありました。

宏基は、
「やーい、お前の父ちゃんラーメン屋!」
とからかわれることすらあったとか。

こうして百福は、試行錯誤の末にチキンラーメンを作り上げます。

ここでよく言われる逸話があります。
仁子が天ぷらを揚げていることから、麺を揚げたというものです。

ただしこれは、本人がそう言っているということは差し引いた方がよいかもしれません。
それというのも、台湾には揚げ即席麺文化があるからなのです。

「雞絲麵」(ジースーミエン)」
「意麺」(イーミエン)

 

台湾出身の百福が、そのことをヒントにした可能性は否定できないのです。

どうやら台湾ルーツには複雑な思いがあったようで、彼は出生地・嘉義には戻らず、生家である呉家とも縁を切っています。
そうしたことから、天ぷら説を主張している可能性もあるわけです。

そして昭和33年(1958年)。
家族も手伝う中、即席麺は完成します。

「チキンラーメン」でした。

一家総出で作り、やっと売り出したものの、家計は苦しいものでした。
毎晩のように鰯の煮付けを食べさせ、ため息をつく仁子の姿がそこにはあったのです。

 

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厳しく優しい「慈母」として

チキンラーメンが売れ出し、「日清食品」を開業したとき、百福は五十歳の手前でした。
どこか甘さがあった彼も経営者として開眼し、チキンラーメンを売り、守るべく邁進してゆきます。

池田市で、安藤家は落ち着いた暮らしを送ります。

仁子は家計のやりくりから解き放たれたためか、育児に集中。
子供たちにとって仁子は、教育熱心で厳しい母でした。

仁子は、母・須磨の誇り高く、教育熱心で、厳しい性格を受け継いでいたのかもしれません。
宏基は「鬼の母」と呼んだことすらあったとか。

そして昭和43年(1968年)。
苦労し通しであった母・須磨が亡くなりました。
享年89。

仁子と百福にとって、戦後の大変な時期、家事や育児を引き受けてきた頼りになる母でした。

「ならぬことはならぬ」
――そんな言葉で締めくくられる教えの中でも、年長者を重んじる項目は特に大切であり、尊敬していた母の死は決して軽いものではなかったでしょう。

しかし百福は、海外に視察のような状況でも、妻ではなく溺愛する娘の明美を同行させました。
仁子は、夫の事業には、ほとんど口出ししない性格であったのです。

それでも、内心は苦労をしたという思いが渦巻いていたのでしょう。
明美には、初婚の相手と結婚しろと言い続けていたとか。母も自分自身も、初婚ではない相手と結婚して苦労したからという理由です。

我が子の成長を見守り、孫を可愛がる。
しかし夫の仕事には口出ししない。
古典的な内助の功を持つ女性。
そんな彼女にも、出番が回ってくることがあります。

夫と我が子が対立したその時です。

百福は譲れない性格のためか、我が子に社長の座を譲っても院政をするタイプでした。
長男の宏寿は、そのため一旦はわずか2年で身を引いています。

1985年(昭和60年)、75歳で社長の座を38歳の宏基に譲ります。
しかしここでも父子は対立します。

宏基がカップヌードルを超えようとして、
「打倒カップヌードル!」
と発破を掛けたことに怒ったのです。

押しも押されぬヒット商品を超えてゆく――そんな野心ゆえのフレーズですね。

彼の著書のタイトルもズバリ、
『カップヌードルをぶっつぶせ! - 創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀』
です。

しかし、百福は気に入りませんでした。

ここで両者の仲裁に立ったのが仁子です。
いつになったら引退し、小学校時代から打ち込んで来た書道や、信仰の道を極められるのか?
仁子はそう嘆いていたそうです。

歳をとり、耳や目が悪くなってゆく安藤夫妻。
それでも私は観音様だからと言い聞かせ、耐え忍ぶ――そんな仁子の生き方でした。

そして平成19年(2007年)。
百福死去。享年96。

それから三年後の平成22年(2010年)、老衰により仁子も死去します。

享年92。
曾孫の顔を見ることを楽しみとしていた、穏やかな晩年でした。

 

ヒロイン本人の性格や人格を無視してないだろうか

2018年末、仁子をヒロインのモデルとしたドラマ『まんぷく』放映中、こんな記事が掲載されました。

(ニュースQ3)妻に贈ってきた「内助功労章」廃止、賛否:朝日新聞デジタル

「内助功労章」をどう思いますか――。青森県五所川原市が今月、吉幾三さんら市の褒賞受賞者や名誉市民の妻に贈ってきた「内助功労章」を廃止した。女性受賞者の夫には贈っておらず、「性別で役割を決める発想につながりかねない」というのがその理由。類似した賞がある自治体でも見直しの動きがある。

平成という時代が終わりゆく中、「内助の功」はもはや時代にそぐわない。
そういう流れの中、見直されたわけです。

安藤仁子という人物は、まさに「内助の功」と呼ぶべき典型的な女性です。
夫の事業に口出しせず、慈母のような優しさで見守り、我が子を厳しく育てる、そんな存在です。

チキンラーメン開発秘話の天ぷらについても、前述の通り、真偽定かではない部分があります。

確かに仁子の人生は浮き沈みの激しいものではあります。
ただし、事業関連については安藤百福の人生を語れば、大体わかるようなものではあるのです。

ドラマの題材に取り上げられるからには、2014年下半期『マッサン』における竹鶴政孝の妻・リタのように、国際結婚にまつわる何か劇的な挿話があるのかと思いました。

しかし、仁子の場合はそうでもありません。
それどころか『まんぷく』では国際結婚という要素すら消し去られました。

1997年上半期『あぐり』のモデルとなった吉行あぐりは、夫・吉行エイスケの知名度が高いとはいえ、自分が語りたい世界をしっかり持った女性でした。
だからこそ、ドラマ原作となる自伝的手記も残しているのです。

仁子の場合、こういうタイプでもない。
彼女の性格からして、ドラマでスポットライトが当たることを望んだのだろうか?と問われると、とてもそうは思えません。

どうしても思い出してしまうのは、2015年大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロインに抜擢された、楫取美和子のことです。

吉田松陰の妹
久坂玄瑞の妻
楫取素彦の妻

そんな華やかな経歴であっても、美和子はおとなしい性格であり、松陰とも年齢差があって姉ほど親しい交流はありません。
松陰の妹としても、幕末長州藩士の妻としても、目立たない人物でした。

2013年大河ドラマ『八重の桜』では、山本覚馬の妹であり新島襄の妻であり、新島八重がヒロインです。

美和子では性格面が真逆と言えるほどに異なり、八重は積極的で、気が強く、前に出て行くタイプの女性でした。
だからこそドラマも人気を博し、数多の賞や功績を残したのでしょう。

しかし、美和子も仁子も決してそうではありません。

にもかかわらずなぜ主役に抜擢されたのか?
ヒロイン本人の性格面や素質面を深く考えず、有名人の妻枠として引っ張られてきたのではないか。
どうにもそう思わざるを得ません。

安藤百福本人が主役では、いけなかったのでしょうか?
平成最後の歳に、彼女は朝ドラヒロインとして取り上げる人物として、時代に則しているのでしょうか?

安藤仁子の人生を振り返って、考えてしまうのはそんなことなのでした。




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文:小檜山青

【参考文献】
『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(→amazon link
『インスタントラーメン誕生物語―幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福』(PHP愛と希望のノンフィクション)(→amazon link
『ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉安藤百福: 即席めんで食に革命をもたらした発明家 (ちくま評伝シリーズ“ポルトレ”)』(→amazon link

 



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