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まんぷく立花福子モデル・安藤仁子(まさこ)92年の生涯を振り返る

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安藤仁子
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戦火の中、百福との出会い

女学校卒業後、仁子は両親とともに、京都・醍醐にある姉の嫁ぎ先・有元家に身を寄せます。

そして「三条の都ホテル」(現・ウェスティン都ホテル京都)で働き始めました。

電話交換手は地味なもの。ロマンスはありません。いや、正確に言うとないわけではありません。

交換手が購買部で仕入れた缶詰を手にしてやって来たとか、フラれて自殺をはかった従業員もいたとか。

仁子は、恋愛には奥手であったのです。

このころになっても桑原貞子とは交流をしていました。

軍医である夫の戦死後、貞子は薬剤師となり百歳を超えてまで現役であったそうです。たくましい戦後を生き抜いた女性でした。

家族を自らの給料で養う苦しい生活の中、日本は暗い空気に巻き込まれてゆきます。

1937年(昭和14年)日中戦争開戦

1939年(昭和16年)第二次世界大戦開戦

1941年(昭和18年)太平洋戦争開戦

1942年(昭和19年)父・重信死去

戦時中という暗い時代の中、それでも仁子は母との暮らしを支えようと決意を固めます。

そんな彼女の働きぶりが評価され、フロント業務を任されます。

義理堅く真面目な仁子に、ある男性が惚れ込んでしまいました。

安藤百福です。

元陸軍中将・井上安正の紹介で出会いました。

一度は仁子に求婚を断られた百福ですが、

「好きなら攻めて攻め抜け!」

というアドバイスを受け、めげずに求愛し、やっと交際が実ったのです。

昭和20年(1945年)3月13日。

第一次大阪空襲の8日後、二人は京都で挙式しました。

夫は35歳、妻は28歳。

結婚を機に、仁子は十年間勤務したホテルを退職しました。

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疎開生活、そして製塩業へ

さて、こうして書いてくると百福は女性経験に対して奥手であるかのように思えますが、そうではありません。

台湾に妻子がおりました。

台湾の第一夫人:呉黄綉梅

その長男:宏寿(ひろとし)

その養女:呉火盆

台湾の第二夫人:呉金鶯(来日後、帰国し再婚、この間に二男一女)

新婚夫妻には、仁子の母・須磨と、百福の先妻との間の子・宏寿という養うべき家族がいたわけです。

仁子は宏寿のことを気遣っていました。

それでも彼には複雑な思いがあったのか、知人の家を転々とし、成人後は中国大陸に渡ってしまうこともあったそうです。

のちに「日清食品」社長となるも、父と経営観が異なったためか、二年で身を引いています。

宏寿は知人に預け、上郡で疎開生活が始まります。

百福の機転で、戦時中であっても食糧には困らなかったようです。

電気やトリカブトを川に流し、うまく魚を獲ていたのでした。

夫妻は無事終戦を迎えられたのです。

ただし、悲しい出来事もありました。

夫妻の第一子である女児は、八ヶ月と予定より大幅に早かったこともあり、死産であったのです。

夫妻の悲しみと怒りは深いものでした。

戦時中とは、このような流産や死産、乳幼児の死が重なった時代でもありました。

疎開していた上郡は、塩の名産地である赤穂にも近い場所です。

アイデアマンの百福は、ここで製塩に興味を持ち自分なりに調べていたのでした。

終戦により、百福の事業は一からやり直しとなりました。

幸い貯金はあります。

百福はビジネス上での知人である久原房之助から、土地を買うように助言を受けております。

そして夫妻は泉大津に居を構えました。

この土地には、造兵廠(ぞうへいしょう・武器弾薬工場)がそのまま残されていました。

管理している大阪鉄道局に掛け合い、払い下げをしてもらったのです。そこにある物資を元に、赤穂で見てきた製塩事業を始めようと百福は思い立ったのでした。

百福は顔の広い人物でした。

田中義一・龍夫父子、佐藤栄作とも交流があったほどです。

田中義一/wikipediaより引用

こうした政治家は、こう口にしていたものです。

「今の街中には、働くあてもない若者や戦災孤児がうろうろしている」

その通りでした。

軍を辞めるなり、戦地から引き揚げるなりしたものの、働く場所や家を失ってしまった若者たち。

両親も家もない孤児たち。

そんな行く当てもない人々があふれていたのです。

百福は、こうした若者を雇用し製塩業を行うことにします。

鉄板を海辺に並べ、海水を濃縮する製塩の工夫は、通常の塩田よりはるかに効率的だと彼は誇りに思うほどでした。

余った塩を近所に配り、漁船でイワシを採る日々。

仁子は女学生時代から得意としていた水泳を楽しむこともあったそうです。

水泳が苦手な百福は、妻について行くことができなかったのだとか。

そんな楽しい日々でした。

 

投獄の苦労

当時は、戦後復興真っ盛り。

それまでの生きる目標を失った若者たちにも、焼け野原だらけの日本にも、新たな目標が必要でした。

そんな昭和22年(1947年)。

百福は名古屋において「中華交通技術学院」を設立。自動車や鉄道の技術を学べる学校でした。背後には佐藤栄作の力もありました。

学ぶ学生は、在日中国人と日本人双方で、百福は学費給付制度を始めています。

安藤百福像

この年には、夫妻の長男・宏基も誕生。

同時に百福は栄養食品の研究も進めており、食用ガエルを圧力釜で煮詰めておりました。

圧力釜での実験には失敗したものの、産後で体力が落ちていた妻にカエルを食べさせ、栄養をつけられたと満足していたそうです。

優秀な病院食として、厚生省(現厚生労働省)からも認められております。

百福は、牛や豚の骨を用いたペースト状の栄養食品「ピクセイル」を売り出します。

食品加工への第一歩を踏み出したわけです。

例えばこの時期、百福はラーメン店の前で並ぶ人の姿を見て、こんなにも麺類が好まれるのかと印象に残ったのだとか。

百福の事業は拡大してゆきました。

学費給付生もどんどん増えていきます。GHQの軍人家族とも交際し、夫妻はダンスを習い始めたとか。

安藤家には、多くの客が出入りするようになりました。宏基一歳の誕生日は、それはそれは盛大なものであったそうです。

従業員も増え、もう仁子や須磨だけでは回りません。家事手伝い要員も雇用しました。

経理は須磨が、パチパチと算盤をはじいてきっちりと管理し、安藤夫妻はもはや従業員の親代わりです。

恋愛相談を持ち込まれ、親身になって答えたり、アルコールにカラメルを加えて、イミテーションウイスキーのようなものを作ったり。

おつまみは沖合で取れる魚でした。

羽振りがよく、若者が大勢出入りする安藤家を快く思わなく人がいたのでしょうか。誰かが見張っていることがあったようです。

そして……。

昭和23年(1948年)、百福は突如、学費給付が脱税のための隠れ蓑とみなされ、逮捕されたのでした。

しかも、一週間という裁判で、GHQ軍政部は重労働四年という判決を下します。

財産が差し押さえられる中、仁子は母の須磨とともに池田市の借家に引っ越し。財産すら差し押さえにあう中、生活費はため込んだへそくり頼りでした。

心細い仁子を支えたのは、須磨の強い励ましと言葉です。

「不満があっても、鯨のように飲み込むのです」

須磨はそう言い、どっしりと落ち着いていました。

臨月だというのに、仁子は巣鴨プリズンまで面会に向かいますが、面会時間はあっという間に過ぎゆくだけ。

そして昭和24年(1949年)、長女・明美誕生。

当時、GHQは厳しい徴税策を行っており、百福の逮捕にも、そうした一環があるのでしょう。

百福は税務当局を相手に、処分取り消しを訴えることにしました。六人の弁護団を組織し、正義のために戦うことにしたのです。

収監から二年が経過しようとしていました。

明美は満足に栄養も摂取できず、歯もなかなか生えそろいません。

そんな明美を抱えた仁子が涙ながらに訴えると、百福の心も揺らぎます。

このへんでよいのではないだろうか――弁護団はこのまま戦えば勝てると言うものの、百福は迷いました。

妻子のためにも、長引きそうな訴えを取り下げたのです。

直後、彼は釈放されました。

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