昭和十三年(1938年)10月5日は、画家の高村智恵子が亡くなった日です。
夫である光太郎の詩集『智恵子抄』(→青空文庫)の方が有名かもしれませんね。
なぜあのような詩ができたのか。
智恵子本人は一体どんな人だったのか。
見ていきましょう。
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日本女子大学へ進学するも絵に興味を抱き
智恵子は明治十九年(1886年)、現在の福島県二本松市で二男六女の長女として生まれました。
父親は酒造業を営んでおり、使用人も複数いる裕福な家だったといいます。
8人きょうだいという、子供の多さも納得ですね。
しかも、智恵子は高等女学校や日本女子大学校へ進んでいます。
この子供の多さでこの時代、長女を高等教育機関へ通わせるというのは、相当の収入がないと不可能なことです。
後にそれは智恵子に良くも悪くも影響しました。
一人東京へ出てきた智恵子は、大学へは寮生として入学し、家政学部へ進学。
しかし一番興味を持ったのは裁縫や料理よりも、自由選択科目の一つだった油絵で、その授業ばかり受けていたといいます。
好きなことに夢中になると、他のことに関心が向かないタイプだったんですかね。
現在で言えばギフテッドと判定されそうで、芸術家タイプにはピッタリな性格でしょうし、ある意味運命の出会いかもしれません。
そして、明治四十年(1907年)の卒業後、彼女は女性洋画家になることを決意します。
平塚らいてうの月刊誌「青鞜」で表紙を担当
明治時代の日本で、女性が画家を目指すことに対し、両親には当然のごとく反対されました。
この頃の社会情勢から考えると、おそらく両親は「智恵子には教養ある女性になってもらい、良い婿養子をとる」か、「(いろんな意味で)良い家に嫁いでほしい」と思って、大学まで通わせたのでしょう。そりゃ反対もしますわな。
気の短い人だったらここで両親と絶交してしまうところかもしれません。
しかし智恵子は根気よく説得し、きちんと許可をもらって画家を目指すことになります。
そして努力の結果、日本史の教科書でもお馴染みの雑誌「青鞜」の表紙を担当し、その筋で名を知られるようになっていきました。
青鞜の中心人物である平塚らいてうとは大学の同級生であり、テニス部でもダブルスを組んでいたといいますから、ずっと友情が続いていたのでしょう。
ちなみに、らいてうも大学に入るとき「女は女学校まででいい」と言う父親を説得していたそうです。
この二人、結構性格が似ていたのかもしれませんね。
仕事をきっかけに、智恵子は青踏社の他の人々とも親睦を深めていきました。
そして、知人の紹介で将来の夫・光太郎と会うことになります。
以前から評論「緑色の太陽」で光太郎のことを知っており、彼の考えに同意していたため、智恵子自身が望んだともいわれています。
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