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【高村智恵子】
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父が亡くなり実家は破産 彼女の精神は弱り果て
光太郎と実際に会って、より強い印象を受けた智恵子は、展覧会へ出品をしたり、自分でも団扇絵展を開催したり、ますます絵画創作に精を出すようになりました。
そして恋心が募った智恵子は、上高地に向かった光太郎を追いかけて一緒に絵を描くという、この時代の女性としてはかなりアグレッシブな行動に出ます。
結婚の意志も固め、翌年の年末から光太郎と共に暮らすようになったとか。
生活は苦しくとも多くの作品を手がけ、智恵子は画家として成長していきました。
しかし、ここで大きな不幸に見舞われます。
父の死によって実家が破産の上、残された家族も散り散りになってしまったのです。
時折しも、画家としてスランプに陥っていたタイミングで、持病の湿性肋膜炎も重なり、智恵子は精神的にも弱りきりました。
そして夫が取材旅行でしばらく留守にしている間に、統合失調症を発病してしまうのです。
仕事とはいえ、高村光太郎もタイミング悪すぎ……(´・ω・`)
統合失調症とは、かつて「精神分裂病」と呼ばれていた精神病です。
意味がわかりにくい病名ですが「それだけさまざまな症状が出る」ということなのでしょう。
現在では治る患者も多いようですが、智恵子の時代では周囲の不理解なども強く、治療が極めて難しかったと思われます。
智恵子も、一時は睡眠薬で自殺をはかるほどでした。
粟粒性肺結核で亡くなった
発病の翌年に光太郎と結婚。
一緒に東北地方の温泉めぐりをしたり、母や妹一家が移り住んでいた千葉県九十九里へ引っ越すなどしても、症状は一向に良くなりません。
昭和十年(1935年)には、東京のゼームス坂病院に入院して、治療に専念することにしました。
光太郎も、自分なりに妻の症状を和らげる方法を探し、その中で「簡単な手作業が良い」という話から、千代紙を持っていきます。
千代紙の美しい色合いや柄などから着想を得たのか。
智恵子は再び絵を生み出していきました。
洋画ではなく紙絵というフィールドの変化はありましたが、病床で千点以上もの作品を生み出したのは、智恵子の創作力を示す何よりもの証拠です。
しかし、入院して三年経った昭和十三年のこの日。
彼女は突如、粟粒性肺結核で亡くなってしまいました。
精神病による自殺ではなく、身体的な病気であったというのは運命の皮肉というか、残された者にとっての慰めになったのか……。
光太郎が智恵子の死に際して作った「レモン哀歌」という詩にちなみ、智恵子の忌日を「レモン忌」とも呼びます。
現在では国産レモンの収穫がこのくらいの時期から始まるそうなので、そういった意味でもふさわしい呼び名になりました。
といっても国産レモンが市場に出回るのは12~1月だそうで……。
その頃にもう一度智恵子を偲ぶのもいいかもしれませんね。
また、上記の通り、智恵子の生家は酒造をやめてしまっていますが、10kmほど南の本宮市にある「大天狗(だいてんぐ)酒造」という会社で、彼女の名前がついた日本酒を現在造っているそうです。
中身も智恵子の生家のお酒を継承しているのだとか。
再現された生家の裏には【智恵子記念館】もありますので、現地を訪れて偲ぶのも、お酒を飲みながら偲ぶのも良さそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
高村智恵子/wikipedia
智恵子抄/wikipedia