文系人間にはどうにも敷居が高い数学――。
しかし、いったんハマるとこれほど抜け出せない学問もないようで、江戸時代の日本でも広く親しまれていました。
その中に一人の天才がいます。
宝永五年(1708年)10月24日に亡くなった関孝和(たかかず/こうわ)です。
和算(わさん)という日本独自の数学を修めた天才で、当時の世界レベルにあったと思われる方。
群馬県出身者の皆様には『上毛カルタ』の「わ」でお馴染みの存在ですね。

関孝和/wikipediaより引用
早速、その生涯を見て参りましょう。
主君に数学の才を買われ
関孝和は、小さいころから『塵劫記(じんこうき)』などの数学書を好んで読んでいたという、根っからの数学好き。
いつ・どこで・誰に数学を教わったのかはわかっていません。
江戸時代ではなんとなく興味を惹かれてやり始めたら、いつの間にかその道で食べていけるほどになった――そんなタイプの学者や研究家がたびたび登場するため、彼もその一人だったのかもしれません。
孝和の青年期あたりでも色々と数学書が出版されていましたし、寺社に数学の問題を奉納して解答者を募る“算額”もありました。
おそらく幼少期にそういったものに触れ、興味関心を強めていったのでしょう。
現代であれば、いわゆる“ギフテッド”として知られた可能性もありますね。
孝和は、身分としてはそう高くはないものの、数字に対する尋常ならざる情熱っぷりを買われてか、甲府宰相・徳川綱豊の勘定吟味役として仕えることになります。
米や金銭、土地について監査する役職です。
ここでの働きぶりが評価されたようで、宝永元年(1704年)に綱豊が江戸に来るときにもお供をすることになりました。
そう、徳川綱豊とは後の徳川家宣だったのです。

徳川綱豊こと徳川家宣/wikipediaより引用
幕府の御納戸組頭に抜擢
当時の将軍は五代・徳川綱吉。
綱豊からすると叔父にあたります。
綱吉には成人した実子がいなかったので、最も血筋が近い綱豊が養子となり、将軍位を継がせることになりました。
綱吉については【生類憐みの令】をはじめ、近年では
「江戸の人々に倫理観をもたらしたのではないか」
という見方も出てきていますね。
一方でお酒に税をかけたり、貨幣を作る段階で金属に混ぜ物をしたり、経済面では失政をやらかしていました。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
新しく六代将軍となった徳川家宣の急務は、まずこれらを正して幕府への信頼を取り戻すこと。
その過程でなくてはならないのが経済や数学に強い人材……ということで、孝和にもお声がかかったようです。
孝和は江戸入り後に“御納戸(おなんど)組頭”という役職を任されます。
御納戸は将軍家の金銀・衣服・調度などの出納を担当する役職で、御納戸組頭はそこの責任者です。
勘定吟味役として働いていた甲府での実績が高く評価され、江戸幕府でもそのまま重用されたことがうかがえますね。
円周率を導き出すほどの頭脳だった
江戸に来る前の関孝和は、甲府周辺の地図を作成。
その後、新しい暦(カレンダー)を作ろうとしたのですが、他の人に追い越されてしまって完成させることはできませんでした。
その代わり、暦を作る過程で円周率が必要になったため、正131,072角形という「そりゃ、もう、円じゃね?」という図形を使って近似値を割り出します。
その結果が“3.141592653589”という現代でも通用する数字だったというのですから凄まじい。
頭の中がどうなっていたのやら、いやはや凡人には想像すらできません。
しかし孝和の本領発揮はここから。
中国から伝わっていたのにすっかり忘れ去られていた「天元術」という計算方法を発展させ、「発微算法(はつびさんほう)」というやり方を編み出します。
ゲームだったら何かを召喚できそうな……あるいは必殺技のような名称ですね。
天元術については孝和以前にも、和算家の沢口一之(かずゆき)という人が研究していて、本も出ていたのですが、天元術のままでは答えが出せない問題がありました。
沢口一之はその15問を巻末に載せ、
「俺はできなかったけど誰かやってみろよ!」
と書き残していたのです。
孝和式数学「関流」が広まっていく
沢口一之の問いに挑んだのが関孝和。
新しい計算式を作るというウルトラCでこの15問を解いたのです。
発微算法とは、簡単に言うと一次方程式のことであり、「6y+5=29」のように、不明な数を文字に置き換えて計算するアレです。
現代であれば中学校で習う方法ですが、この時代には生み出されて間もない概念でした。
孝和は後にこの計算方法を本にして出版しますが……その際に式を省略しすぎた上、印刷ミスがあったため「インチキじゃねーか!」とツッコまれてしまいます。
後日、孝和の弟子・建部賢弘が改版や補足書などを出し、ようやくまとまりを見せることになりました。
関孝和自身は自己顕示欲がなかったのか。
あまり自らの考えや名を世の中に出そうとはしなかったようです。
純粋に数学の問題を解くことが好きで、弟子たちも同好の士のような感覚だったのかもしれませんね。
では孝和の頭脳は一体どれほど凄かったのか?
というと、ニュートンやライプニッツ、ベルヌーイといった世界に名だたる数学者達をぶっちぎって、微分法やベルヌーイ数を発見したともされる程。
この件に関しては「ちょっと違うんじゃない?」という指摘もありますが、孝和の頭脳が優れていたことについては疑いようがないところでしょう。
人柄も良かったのか、孝和のもとには多くの優秀な弟子が集まり、彼の教えを広く伝えていきました。
前述の建部賢弘とその兄弟である賢明をはじめ、関流の和算は長く伝えられていくことになります。
和算には多くの流派がありますが、その大部分は関流の流れを汲むのだとか。
中には【遊歴算家(ゆうれきさんか)】といって、諸国を渡り歩いて数学を教えるというような人もいました。
当時の人々は数学を”お硬い学問”ではなく「よくわからんけどなんかスゴイことできる人が来た!面白え!!」と楽しんでいたのかもしれません。
おかげで江戸時代の庶民もある程度のレベルで数学ができたそうで。
もちろん、寺子屋などで既に数字に慣れ親しんでいた状況があったからです。

寺子屋と女性教師/wikipediaより引用
「算聖」と呼ばれて
数学が広まるキッカケを作ったからでしょう。
関孝和はその後、俳聖・松尾芭蕉や茶聖・千利休と並ぶ「算聖」と呼ばれるようになります。
そして宝永三年(1706年)11月に職を辞すと、その後は小普請組(特に役職のない旗本)という身分になりました。
新宿区浄輪寺にある孝和の墓には、宝永五年(1708年)10月24日死去と書かれているため、最晩年は数学に熱中してゆっくり余生を送ったのかもしれません。
孝和は実子がおらず、兄の子・新七を養子にしていました。
新七は養父に似なかったらしく、甲府勤番中に博奕をした咎で追放され、断絶しています。
まぁ、優れた人の親族が全員デキる人かというと、必ずしもそうではありませんしね。
歴史の偉人たちを見渡してみても、突出した頭脳・能力の持ち主は、突然変異で生まれてくるパターンのほうが多い印象です。
明治政府「和算はもういらない」
和算にとって不幸だったのは、江戸時代の次に迎えたのが薩長主導の明治政府だったことでしょう。
西洋礼賛が過ぎて「これからは西洋数学! 和算は廃止!」という無茶なお達しが出されたのです。
これにより和算を学ぶ人が激減。
そろばんだけが残ったのは「西洋数学を教えられる人間が少なすぎて、簡単な計算をするにも困ったから」だそうで……なんだか迷走しまくってますな。
★
趣味が高じて新たな仕事(収入源)に繋がる――というのは昨今の副業時代にもフィットしていますよね。
コスパ時代における数学など「それ、なんの役に立つん?」と言われそうですが、何かを極めれば仕事に繋がる可能性はゼロではありません。
関孝和の生き方は、現代にもヒントがあるのかもしれません。
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【参考】
鳴海風『江戸の天才数学者―世界を驚かせた和算家たち―(新潮選書)』(→amazon)
国史大辞典
江戸の数学関孝和/国立国会図書館(→link)
竹之内脩『関孝和の数学』(→amazon)
国史大辞典
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)





