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(絵・桂花)

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その日、歴史が動いた 豊臣家 浅井・朝倉家

京極高次の「蛍大名」という生き方 彼は嫁と妹のおかげで出世した?

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蛍大名とは「女のお尻で輝く大名」

古今東西、結婚によって出世する人もいれば身を滅ぼす人もいます。
エラくなればなるほどハイリスク・ハイリターンなものといってもいいでしょう。

多くの場合「好きでもない男と結婚させられる女性がカワイソウ!!」という話になりますが、徳川家茂と和宮のように政略結婚でもお互い歩み寄ってうまくいったケースもありますから、やはり当人同士の意志の問題も大きそうです。

世界史でいえば、ヴィクトリア女王と王配(女王の夫のこと)アルバートや、子供が生まれてからのルイ16世マリー・アントワネットなどが政略結婚でも比較的夫婦仲が良かった人たちですかね。
まあその辺はまた後日取り扱うとしまして、本日は結婚による縁で戦国時代を生き延びた人のお話です。

慶長十四年(1609年)の5月3日、”蛍大名”といわれた京極高次(たかつぐ)が亡くなりました。

こんな雅なあだ名がついているといかにも文化人のように見えますが、実はまったく違う理由でこのようにいわれています。
彼は女性の縁者に助けられることが多かったため、「女の尻のおかげ(七光り)で出世したヤツ」という実に不名誉かつ品のない言い方をされてしまったのです。いつの時代も悪趣味なあだ名をつける人はいるんですねえ。
実際は高次自身もいろいろ頑張っていますので、判官びいきがモットーの当コーナーとしては汚名を雪ぎたい人物の一人です。

 

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細川家に並ぶ名門

もともと彼の生まれた京極家は、室町時代の”三管四職”と呼ばれる家の一つでした。
これは簡単に言うと室町幕府のエリートになれる家で、管は幕府No2の管領、職は軍事・警察機能のトップのことです。どこから”職”の字が来たのかとかこまけぇこたぁいいんだよ。
ですので、本来であれば高次もエリートコースに乗れるはずだったのですが、応仁の乱以降は他の名門と同じくすっかり落ちぶれてしまっていました。
元は自領のパシリ的な位置だった浅井家(信長の義弟・長政の家)に立場をひっくり返されているくらいですので、その凋落振りが窺えます。高次が生まれる前の話ですので、彼のせいではないんですが。

しかも小さい頃には信長のところへ人質に出されています。とはいえ、真面目に仕えていたようで、10歳の頃には5000石の領地をもらっていましたから、さほど待遇は悪くなかったのではないでしょうか。
信長が「名門だから」って理由でひいきするとも考えにくいですしね。

織田信忠と歳が近いので、そのまま順調に行けば織田家の重臣になれたのでしょうけども、残念なことに本能寺の変でその道は絶たれてしまいます
このとき高次は妹の嫁ぎ先が光秀方についたため、その縁で自分も光秀に協力しました。ちょうど細川家とは真逆の道を選んだわけですね。
が、結果として妹の旦那さんは自害、さらに1ヶ月足らずで光秀自身も討たれてしまったので、高次は身分を隠して一時野に下りました。

 

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名門武家好きの秀吉が妹を気に入る

「ワシは貴族の娘には興味ない。武家の名門ONLYじゃ」(絵・富永商太)

「ワシは貴族の娘には興味ない。武家の名門ONLYじゃ」(絵・富永商太)

次に高次が姿を現すのは、本能寺の変から二年後のこと。
名門好きの秀吉が高次の妹を気に入り、側室にしたことで彼の運が開けました。妹が「うちのお兄ちゃんはアナタに逆らいましたが、あのときは仕方がなかったのです」と秀吉に口添えしてくれたのです。
秀吉は秀吉でまだ天下統一の前で人手が欲しい時期でしたから、名門かつそこそこ実績のある高次をあっさり許してくれました。高次もこれに応え、九州征伐で功を挙げてめでたく大名になります。

そして、浅からぬ縁のある浅井家の娘・お初と結婚しました。いわゆる”浅井三姉妹”の次女で、一番影が薄ゲフンゲフン。
特に夫婦仲のエピソードはないようですが、子供がいない割には不仲という逸話もないですし、従兄妹同士で歳も近く、また同郷の出ですからそこそこ話は合ったんじゃないですかね。
が、不幸なことにこの結婚のせいで高次は”蛍大名”といわれるようになってしまいます。
お初の姉は淀殿(茶々)。そして特に秀頼が生まれてからの秀吉が、彼女に激甘だったことは想像に難くありません。
この二点から「高次は奥さんと義理のお姉さんを通して、秀吉に媚を売ったに違いない」

→「女の尻のおかげで出世とはいいご身分よなwww」

というわけです。品がないなあ。

高次には関係ないんですけども、秀吉存命中の蛍に関する話がもう一つあります。ついでですからご紹介しましょう。

「秀吉が”奥山に 紅葉踏み分け 鳴く蛍”という季節感も生態も無視した歌を詠んだとき、勇気ある人がツッコんだが、細川幽斎がボケの始まった秀吉の八つ当たりを危惧して適当にフォローして事なきをえた」(※ほぼ事実)というものです。
また幽斎かこのチートめ。
話を戻しまして、そんな感じでプークスクス扱いを受けることもありましたが、高次は真面目に働き続けました。
関が原の時には家康と三成両方から声をかけられていますので、少なくともただの蛍でないということがわかる程度には仕事をしていた……はずです。
どっちつかずだったと見ることもできますが、彼はその立場を存分に生かして動きました。

 

関ヶ原で家康からも三成からもひっぱりだこの大人気

まず最初に、家康から「ちょっと上杉んとこ行ってくるから、大津城(現・滋賀県大津市)の守りをお願いしますね」(超訳)と声をかけられました。とはいえボケッとしているわけにもいきませんし、京極家として家康とのコネは保っておかないとマズそうだと判断します。
そこで弟と家臣を家康に同行させ、体面を保ちました。

が、ここで馴染みの武将を通じて三成から「狸始末するんでこっちについてくださいよ!アナタ太閤殿下に恩がありまくるでしょ!」(超訳)という要請が来ます。
もし三成につかないとなると、高次は大津城で西軍全てを相手に一人で頑張らなくてはいけませんでした。この城は大阪から京都を通って関東方面に向かう途中に位置しますが、さほど規模が大きくはなく、また兵数も多くはありません。
ここで高次は「まともに戦っても勝てなさそうだけど、三成負けそうだし完全に味方するのもアレだな。よし息子を人質出して時間稼ごう」(超訳)という結論を出しました。
現代の感覚だと、人質=いかにも外道なことのように思えますが、当時はごくごく普通の外交手段の一つでしたので、高次が特別冷たかったというわけではありません。
こうして「わかったよ三成さんにつきますよ」という態度をとりつつ、高次は篭城の備えをしながらこっそり上方の動向を家康に報告していました。もし高次が本当に”蛍”だったら、この辺の腹芸はできなかったでしょうね。

最初は西軍についたふりして琵琶湖畔で籠城

いよいよ西軍が出発すると、高次は途中までは同行したものの、一人大急ぎで大津城へ帰ります。そして帰城翌日には兵と兵糧を集め、井伊直政へ「私は大津城で西軍を引き受けますので、家康殿によろしくお伝えください」と書き送りました。
西軍の先発部隊と後続部隊をぶった切った形になるわけですね。これも戦国武将としての観点がなければできないことです。高次△。

「立花宗茂が関ヶ原にあらわれたらう○こ漏らしちゃうところだったよ」(富永商太・絵)

立花宗茂が関ヶ原にあらわれたらう○こ漏らしちゃうところだったよ」(富永商太・絵)

当然西軍へは即座にバレ、兵がバーゲン会場のごとく押し寄せました。率いているのは総大将・毛利輝元の叔父元康や、「剛勇鎮西一」と称された立花宗茂。
高次も頑張りましたが、兵数だけでも5倍はある上、西軍が大砲まで使ったのであえなく降伏することになりました。
が、その降伏した日というのが旧暦9月15日。つまり関が原の本戦当日です。
戦には負けたものの、高次が狙っていた「西軍の戦力削減」という目的は立派に達成できたことになります。

特に立花宗茂を足止めしたことは家康に大きく評価されました。
高次は敗戦の責任を取って一度高野山で出家しているのですが、大名への復帰を許した上、大幅な加増もしています。
同行させていた弟も本戦で武功を挙げていたので、京極家全体の扱いも良くなりました。

その後は移封先の小浜で城を築き市街整備をするなど、良い殿様をやっていたようです。ちょっと前に「オバマ大統領を勝手に応援する会」で話題になった福井県小浜市ですね。
城の完成前に高次が亡くなり、京極家自体も移封されてしまったので、高次がどんな街にしたかったのかはよくわからなくなってしまっていますが。
こうしてみると、前半は確かに女性のおかげで出世したという面もなくはないですが、後半生は自分の力で生き延びたことがわかります。
その後京極家も明治時代まで存続していますし、当時はともかく現代において彼を”蛍大名”とpgrするのはふさわしくないんじゃないでしょうか。名門ゆえか、どちらかというと武功や謀略で生き延びたというよりも、公家のような粘り強さを持っていた感じがします。
むしろ、くだらないレッテルを貼られてもムキになって言い返したりせず、黙ってやるべきことをきちんとやっていたと捉えれば、現代人が手本にできるところも多い人といえそうです。

長月 七紀・記

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/05/post-bd7c.html
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/京極高次

 





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