京極高次

絵・小久ヒロ

戦国諸家

近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と呼ばれた理由とその生涯

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
京極高次
をクリックお願いします。

 

最初は西軍についたふりして琵琶湖畔で籠城

高次は、途中まで西軍に同行したものの、一人大急ぎで大津城へ帰ります。

そして帰城翌日には兵と兵糧を集め、井伊直政へ一報入れます。

井伊直政
武田の赤備えを継いだ井伊直政(虎松)徳川四天王の生涯42年とは?

続きを見る

「私は大津城で西軍を引き受けますので、家康殿によろしくお伝えください」

西軍の先発部隊と後続部隊をぶった切った形になるわけですね。

これも戦国武将としての観点がなければできないことです。高次△。

当然、西軍にバレて、兵がバーゲン会場のごとく押し寄せました。しかも、率いているのは総大将・毛利輝元の叔父元康や、「剛勇鎮西一」と称された立花宗茂です。

立花宗茂
西の戦国最強と称された立花宗茂~浪人から大名へ復活した76年の生涯

続きを見る

高次も頑張りました。

が、兵数だけでも5倍はある上、西軍が大砲まで使ったのであえなく降伏することになります。

その降伏した日というのが旧暦の9月15日。

関ヶ原の決戦当日です。

 

大事な後半生は自分の力で生き延びている

戦には負けたものの、高次が狙っていた「西軍の戦力削減」という目的は立派に達成。

特に立花宗茂を足止めしたことは家康に大きく評価されました。

高次は敗戦の責任を取って一度高野山で出家しているのですが、大名への復帰を許した上、大幅な加増もされています。

同行させた弟も本戦で武功を挙げていたので、京極家全体の扱いも良くなりました。

その後は移封先の小浜で城を築き市街整備をするなど、良い殿様をやっていたようです。ちょっと前に「オバマ大統領を勝手に応援する会」で話題になった福井県小浜市ですね。

ただ、残念ながら、城の完成前に高次が亡くなり、京極家自体も移封されてしまったので、高次がどんな街にしたかったのかはよくわからなくなってしまっています。

こうしてみると、躍進のキッカケは、確かに女性のおかげと言えなくもないですが、大事な後半生は自分の力で生き延びたことがわかります。

京極家自体も明治時代まで存続していますしね。

名門ゆえか、どちらかというと武功や謀略で生き延びたというよりも、公家のような粘り強さを持っていた感じがします。

むしろ、くだらないレッテルを貼られてもムキになって言い返したりせず、黙ってやるべきことをきちんとやっていたと捉えれば、現代人が手本にできるところも多い人といえそうです。

あわせて読みたい関連記事

応仁の乱
応仁の乱って一体何なんだ? 戦国時代の幕開け乱戦をコンパクト解説

続きを見る

浅井長政
信長を裏切った男・浅井長政29年の生涯とは?その血は皇室へ続く

続きを見る

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

織田信忠
信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯

続きを見る

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

明智光秀
史実の明智光秀は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?

続きを見る

山崎の戦い
明智軍vs羽柴軍「山崎の戦い」で秀吉が勝てた理由~光秀は何処へ?

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
京極高次/wikipedia

TOPページへ

 



-戦国諸家
-,

×