日本史ではあまり馴染みのないことが、世界史ではたびたび見られ、その中には「文化の破壊」もあります。
民族や宗教の対立は、同時に起きると言ったほうが正しいですかね。
特にそれがひどかったのは大航海時代。
当時の先進国たちが、”後進国”に対して行ったものでした。
1521年(日本では戦国時代・永正十八年)8月13日に陥落した、アステカ帝国の首都テノチティトランもその一つでしょう。
アステカというのは現在のメキシコにあった国で、高度な文明と多くの金銀山で栄えたところですが、一方で宗教的な面では大変血生臭い習慣を持っていました。
できるだけグロ表現を抑えつつ、その歴史を振り返ってみましょう。
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毎日の生け贄で人口減 その補填のために戦争
アステカは多神教の国で、特に二柱の神を崇めていました。
一方は太陽神テスカポリトカ。
太陽の象徴であるからには恵みをもたらしてくれるわけですから、他の地域の太陽神と同じように慈悲深い存在かと思いきや、かなり悪趣味な神様でした。
アステカを含めて中央アメリカあたりには「太陽は何回か滅びては新しく生まれ変わっていて、現在の太陽は○代め」という信仰があり、滅ぶのを防ぐためには毎日いけにえを捧げなくてはならないと考えられていたのです。
そのいけにえの儀式が大変グロくてですね。
この時代に写真が発明されていなくて良かったと本気で思うレベルです。
が、当然のことながら毎日いけにえを捧げていたら人口が減ります。
そこでアステカは、いけにえを確保するため+αな理由でしょっちゅう戦争をしていました。
見知らぬ土地へ連れて行かれる上、いけにえにされるとか、この世の不幸が凝縮されすぎです。
一応神に捧げられる=名誉であるともされていたので、儀式の日まではある程度丁重に扱われたそうですが、全くもって嬉しくねぇ。
ケツァルコアトルが戻ってきた?
当時から、この儀式に疑問を抱いていた人がいたようで、対立する考えの神も崇められていました。
平和の神ケツァルコアトルといい、いけにえに反対していた……とされています。
彼にもいけにえが捧げられていたらしき形跡があるので、【いけにえ反対】というの後で付け加えられたのかもしれませんが、テスカポリトカと対立していたのは確かなようです。
そしてテスカポリトカの計略に破れ、アステカの地を去ることになりました。
「一の葦の年」に戻ってくる……という予言を残して。
それから長い年月が経ち、その年が近付いてきた頃、アステカの東の海に見たことのない船が現れ始めました。
予言を思い出したアステカの人々は「ケツァルコアトルが戻ってきたのだ」と勘違いしてしまいます。
ケツァルコアトルは変幻自在の神とされていたのですが、その中でも二つの姿が言い伝えられており、一つは翼の生えた蛇、もう一つが”白い肌の人間”でした。
見覚えのない船から下りてきたのは、まさに白い肌を持つ人々。
「ケツァルコアトルが本当に戻ってきた!」と信じて疑わないアステカ人は、早速王に報告。
王様もこれを信じ、白い肌の一行を歓待します。
その正体は侵略者のスペイン人です
勘のいい方は既にお気づきかもしれませんね。
「16世紀に」「海を渡る技術を持っていた」「白い肌の人間」……そう、ケツァルコアトルの一行だと思われたのは、ヨーロッパからアメリカ大陸を目指してやってきたスペイン人たちだったのです。
このときのリーダーはエルナン・コルテスという人物で、ありていに言えば女好きの乱暴者。
とても「平和の神の化身」にはふさわしくない人物でした。
が、神の再来を信じるアステカの人々には、彼の故国及び道中での行状などわかりません。
アステカ側は客人の接待のためいけにえを神に捧げようともしていますが、これはスペイン人側が断りました。
一度儀式場を見たときに、まだ血の跡も生々しい祭壇を見てうんざりしていたからだそうです。
歴史的に見れば、ヨーロッパでもいけにえより酷いことやってるんですけどね。
スペインでも大航海時代とほぼ同時期に異端審問とかやってますし。
特にコルテスにとってはキリストの教えが届かない地域でこんなことが行われているのが許しがたかったらしく、即刻アステカを武力で制圧してしまいます。
戦争の行方を左右したのは天然痘だった!?
アステカも上記の通り戦争には慣れた国でした。
しかし、スペイン人が持ち込んだのは、ある意味、戦争より怖い【天然痘ウイルス】。
免疫のまったくないこの病気が勝敗を決めました。
この間、アステカの王様は三回変わっていますが、天然痘でバタバタ兵が斃れていく中ではどうすることもできず、アステカは滅亡してしまいます。
さらにコルテスは、首都テノチティトランを徹底的に破壊した上、その跡にスペイン風の街を造りました。
これが現在メキシコの首都になっているメキシコシティの原型です。
アステカの首都だった頃はテスココ湖という舌を噛みそうな名前の湖に浮かぶ島の上に街があったのですが、スペインのものになって以降は徐々に埋め立てられ、現在ではその片鱗をうかがうことはできません。
テノチティトランだった頃は、いくつもの島を橋で繋ぎ、水路も整えられていたそうです。
イタリアのヴェネツィアみたいな感じですかね。遠国との交易をしていた点も似ています。
スペイン人の中には「これまで見たどの都市よりも整っている」と絶賛していた人もいたとか。
メキシコシティのあちこちで遺構が出土
20世紀になってからはメキシコシティのあちこちでアステカ時代のものらしき遺構が発見されています。
が、既にメキシコの都市として成長してしまった以上、発掘を進めるのはとても難しいとか……。
加えて元が湖のため地盤が丈夫とは言えず、1985年のメキシコ地震では建物の倒壊・液状化現象など多くの被害と犠牲者が出ています。
地上ですらこれでは、残っていた遺構も軒並み壊れてしまったかもしれません。
テスココ湖がそのまま残されていても地震の被害が軽減したとは考えにくいですが、文化の破壊が後世によい影響を残すことはほとんどないという一例ですね。
お隣の文化大革……おっと誰か来たようだ。
長月 七紀・記
【参考】
テノチティトラン/wikipedia
メキシコシティ/wikipedia