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その日、歴史が動いた 画家

『民衆を導く自由の女神』を描いた画家ウジェーヌ・ドラクロワ 「禍福は糾える縄の如し」だった人生とは

更新日:

 

人は誰しもいいときばかりじゃありません。また悪いときばかりでもない。
好調なときもあれば不調なときもあり、それと上手に付き合っていくのも我々に課せられた試練と考えることができるかもしれません。

しかし、それが有名な人になればなるほど、“不調”の波は本人を大きく傷つける要因ともなり、それは現代の著名人たちが口さがない報道で苦しむ姿を見ても頷けることでしょう。

今回はその一例、とても浮き沈みの激しい画家のお話です。

1863年(日本では幕末・文久三年)8月13日、画家のウジェーヌ・ドラクロワが亡くなりました。

フランス革命後の美術史でお馴染みの人ですが、本人の生涯というと、例によってあまり知られていませんよね。本日は作品の背景も交えつつ、彼本人の一生に注目してみていきましょう。

ウジェーヌ・ドラクロワ/Wikipediaより引用

 

幼い頃から肉親との別れをたびたび体験

ウジェーヌは、1798年にパリ郊外で生まれました。
父親は外務大臣を経験し、ウジェーヌが生まれた頃はオランダ駐在全権大使という要職の人。母親もルイ15世の宮廷家具師の娘だったそうですから、そこそこいいところの生まれといえるでしょう。

兄二人と姉一人がいて、幼い頃からいろいろなことに興味を持つ子供だったらしく、姉が音楽を習っているところに入っていって、先生に「音楽の才能があるから、そちらに進むといい」と褒められたことがあるんだとか。
ただ、それと同じくらいイタズラもしていたようで、紐で自分の首を絞めてしまったり(物理)、絵の具を食べて中毒しかけたりしております。

両親は気が気じゃなかったでしょうね。いろいろな意味で、人並み以上の少年だったことがうかがえます。
その一方で、幼い頃からルーブル美術館の作品に感銘を受けるなど、将来の下地を着実に作っていきました。

また、7歳のときに父、9歳で次兄、16歳の時に母を亡くすなど、幼い頃から肉親との別れを多く経験しているのも彼の特徴です。
特に母が亡くなってからは経済的にも厳しく、学校を中退して画家に弟子入りしました。この時点では長兄と姉が生存していたはずなので、その二人が好きな道に進むことを許してくれたということになりますね。
好きなことであれば身も入り、結果的に早く稼げるようになるから……なんてゲスい考えではないでしょう。たぶん。

 

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21歳で初の注文 しかしその後の人生は山あり谷ありと……

ウジェーヌは18歳で国立美術学校に入学、友人から水彩を学び、表現力を更に広げていきます。
そんな努力の甲斐あって、21歳のときに初めて注文を受け、「収穫の聖母」という作品を描きました。

しかし、同じ年に病気をし、その後遺症で結核性喉頭炎に生涯苦しむことになります。
この時に限らず、ウジェーヌの人生はまさに「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉がぴったりな状況にたびたび見舞われている感があります。

24歳のときには「ダンテの小舟」という絵が国家に買い上げられたのをきっかけに、毎年サロンへ出品するようになりました。
自信も出てきたのでしょうか。この年の月3日(母の命日)から日記をつけ始めています。一時中断したこともありますが、彼は生涯の大部分で日記を書いていました。友人への手紙も頻繁に書いており、作品以外からもウジェーヌの価値観をうかがうことができます。

よくも悪くも大きく注目を浴びるようになったのは、26歳のときの「キオス島の虐殺」でした。オスマン帝国に対するギリシア人の反乱を描いたもので、タイトル通りの凄惨な光景が生々しく描かれています。
この頃ギリシアはオスマン帝国の支配下にあったのですが、さまざまな点により独立を目指すようになっていました。具体的には、他の領地と比べて支配が緩やかだったこと、ヨーロッパに近いぶん先進技術を取り入れやすかったこと、オスマン帝国の力が弱まりつつあることなどです。

しかし、まだオスマン帝国もギリギリで力が残っていましたので、そう簡単に領地を減らされるようなことはしません。
そのため、力で抑えこまれてしまったのです。

キオス島の虐殺/Wikipediaより引用

 

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画壇から酷評されて日記を一時中断 イギリスへ旅をする

絵画「キオス島の虐殺」も国家に買い上げられました。

が、あまりにも生々しかったために画壇から酷評され、そのショックなのか、ウジェーヌは日記を中断してしまいます。尊敬していた画家からもボロクソに言われているため、無理もないことでしょう。

翌年は新たな視点を求めて、イギリスを旅行しています。芸術といえばフランスのほうが盛んなイメージがありますし、意外ですよね。
ウジェーヌはイギリス滞在中にターナーやコンスタブルなどのイギリス画家の作品を鑑賞し、シェイクスピアの演目を見て感動し、意欲を取り戻します。

そしてイギリス旅行の翌年、「ミソロンギの廃墟に立つギリシア」を出品し、再び評価されるようになりました。これも有名な作品ですね。

ミソロンギの廃墟に立つギリシア/Wikipediaより引用

ミソロンギとは、英国出身の詩人ジョージ・ゴードン・バイロンがギリシア独立戦争に参戦するためやってきたものの、戦闘の前に病死したというびみょu……縁ある場所でした。
中央に描かれている若い女性は、ギリシアという国を擬人化したものです。よくある手法ですね。

 

政府から睨まれ、「画風を変えろ」

この成功により自信も戻ってきたのか、ユゴーなど他の分野の芸術家と交際を始めたのもこの頃でした。

29歳の時に姉が亡くなり、甥を引き取っているので、一人養えるくらいには収入を得られるようになっていたのでしょう。

しかし同年に発表した「サルダナパロスの死」が政府から睨まれ、「画風を変えろ」といわれてしまいます。
大きなお世話ですが、ウジェーヌは政府に作品を買ってもらうようになって安定した感が強いため、無視できなかったのでしょうね。

ここからしばらくは絵が評価されず苦しみましたが、その間はユゴーが脚本を書いた舞台の衣装をデザインしたり、雑誌に美術評論を書いたり、他の方面の仕事もしていました。
絵画だけにこだわらなかったことは、彼の長所の一つでしょうね。

そして33歳のとき、日本でも有名な作品「民衆を導く自由の女神」を発表しています。もちろんに国家に買い上げられ、レジオン・ドヌール5等勲章を受賞しました。

民衆を導く自由の女神/Wikipediaより引用

どうでもいい(?)話ですが、この絵のタイトルは直訳すると「民衆を導く自由」なんだそうです。中央に描かれているマリアンヌ(フランスという国の擬人化として描かれる女性)が印象的なためか、邦訳されるときに「女神」がついたんだとか。
確かに、キリスト教の国で「女神」はないですよね。

これにより政府の覚えも(ようやく)めでたくなり、34歳のとき政府の外交使節団の随員としてモロッコへ向かっています。
異国ながらも地中海民族としての共通点を見つけたり、ユダヤ人など別の民族に触れたりと、大いに刺激を受けたウジェーヌは、また一風変わった作品を生み出していくことができました。

 

ある作品は絶賛され、別の作品はボロクソは芸術家の宿命?

帰国後はブルボン宮・リュクサンブール宮・パリ市庁舎などの装飾画も依頼されるようになり、政府お抱え画家という感が強くなっていきます。

しかし、30代後半からは持病の発作も頻発し、苦しむことも増えていくのですが。体調を回復させるため、夏は愛人と避暑に行く習慣がついたのも同じ時期です。
……発作があるのに、なぜ愛人とイチャつく余裕があるのかが不思議でなりませんが……身の回りの世話なら使用人でいいはずですし。
「病は気から」=「気分が明るくなれば体も良くなる」ってことなんですかね。解せぬ。

彼の生涯では、46歳の年が一番キツイ時期だったのかもしれません。「ピエタ」で再び酷評を受けたものの、翌年別の作品でボードレールに絶賛されています。
しかし、同時期に長兄が亡くなり、天涯孤独になってしまっているのです。神様も意地悪だなぁ……。

その後は装飾画で高評価が定着しました。

それと関係あるのかないのかははっきりしませんが、50歳のとき「ミサを行うリシュリュー」という作品が2月革命に巻き込まれて炎上してしまったことに対しては、あまり関心を払っていません。

ウジェーヌは若いころの手紙で「流行に乗った絵を描くために生まれてきたわけではない」「祖国の為に敵を倒すことはできないが、絵を描くことはできる」と書いています。
彼にとって絵を描くことは自己実現であり、祖国への献身でもあったのでしょう。

だからこそ国や自国の人々に評価されないことは、自分の存在を丸ごと否定されるような気分になったのではないでしょうか。そのために、あまり評価が得られなかった作品が燃えてしまっても、表に出すほどショックを受けなかったのかもしれません。57歳のときパリ万博で回顧展を行っていて、これも好評を博しているので、不遇のままというわけでもなかったのですが。

でも、どれも気合を入れて描いているのに、ある作品は絶賛されて、別の作品はボロクソ言われるというのも悲しいですよね……。それが芸術家の宿命なのかもしれませんが。

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長月 七紀・記

参考:

ドラクロワ 色彩の饗宴 (ART&WORDS)

 


ドラクロワ (朝日選書 (295))

 





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