アジア・中東

身近なようで意外と知らないモンゴル 元寇以外の歴史も振り返ってみましょう!

 

どこの国でも歴史の授業は、自国を中心に勉強するものですよね。よって、たった一度しか名前を聞かない国というのも多々存在するかと思います。日本では世界史というと西洋史を中心にしますけれども、ヨーロッパでは日本のウエイトはそんなに高くありませんしね。
本日は日本にとって近いような遠いような、でも誰もが知っている国のお話。

1911年(明治四十四年)12月29日は、モンゴルが清からの独立を宣言した日です。

日本人にとって、歴史上の「モンゴル」というとやはり元寇のイメージが強いですが、その他のことはほとんど知られていませんよね。最近では朝青龍など、モンゴル系力士の方々の存在によって、親しみを感じる国でもありますけれども。
本日はモンゴルの歴史について、ざっくりとみていきましょう。

必ずしも中国へ攻め込んでばかりいたわけじゃない

中国で存在が証明されている最も古い王朝・殷(商)の時代には、既にモンゴル方面にはさまざまな遊牧民族が確認されていたようです。
殷(商)の次にできた周王朝の時代にも、「北の異民族を討伐してやったぜ!」(超訳)という記録があり、古くから中国とはすったもんだしていたことがわかっています。

万里の長城の建造目的が「モンゴルにいた遊牧民の侵入を防ぐため」と説明されることが多いので、モンゴル方面の民族はケンカっ早い!というイメージをお持ちでしょう。

しかし、厳密にはそうとも限りません。
モンゴル方面の遊牧民と、中国方面の農耕民の間で、それぞれの産物を交易していたそうです。

ただ、モンゴル方面の民族が「もっと安く穀物を売れ! でないとどうなるかわかってるな^^」という脅しをかけてくることがたびたびありまして。そこで「いやいや、ちゃんと正規ルートで取引してくださいよ。ちゃんとそのための交易所もあるんだから」と主張し、むやみな暴力を防ぐために作られたのが、万里の長城です。
その過程で中国に住み着いたり、中国人と結婚して子供をもうける人もいたとか。

そんな感じで、モンゴルと中国の諸王朝は和戦を繰り返しながら進んで参りきました。
モンゴル内部でも「統一したかと思えば数十年で分裂する」という状態が長く続き、なかなか一つの国にマトまらなかったため、仕方なかったのかもしれません。もとが遊牧民族である故に、身内を大切にしすぎて大きな集団になるのは向かなかったというのもありましょう。

軍事的才能に長けていたチンギス・ハンだったからこそ

かつてモンゴルには、柔然(じゅうぜん)や突厥(とっけつ)などといった国がありました。これらの国は現在のモンゴルはもちろん、中国の北東部やロシアの東端地域付近までを支配しており、元々行動範囲が広かったのだろうということがわかりますね。

他に「遼」や「金」などもモンゴルの歴史として語られることが多いのですが、これらの国の中心となった民族は中国北東部出身のため、どちらの歴史として扱うのが良いか判断に困るところです。
地続きの国同士で、当時も交流があったとなると、こういう点がややこしいですね。

そんなわけで、教科書ではモンゴルについての記述があまりないのは、「モンゴル帝国の時代まで統一王朝が出てこなかったから」だと思われます。中国史の単元とモンゴル史の単元両方でやったら、「どれがどっちの王朝なんだよ!?」ってなりますものね。

かように混沌とした中でチンギス・ハンがモンゴルを統一できたのは、ひとえに彼の軍事的才能によります。
指揮能力はもちろん、チンギス・ハンは軍の組織化、新しい武器の活用、そして換え馬の準備まで、戦に勝つための方法を全て整えていたのです。まとめると、「軍が常に100%の実力を出せるような環境を準備していた」ということになるでしょうか。
これだけ見るとまるで”理想の上司”ですが、チンギス・ハンは「男の生きがいは敵をフルボッコにして、財産と敵方の女性を◯◯することだ(青少年の健全な育成のためカット)」(意訳)という恐ろしいモットーを掲げる男でもありました。
まあ、そうでもなければ一代でユーラシア大陸の真ん中をぶち抜くような大国は作れませんよね。英雄とは古今東西、良くも悪くもスケールが違うものですし。

20世紀まで、チンギス・ハンの子孫しか王様になれない国も存在

ちなみに、チンギス・ハンの時代でも、茶など南方でしか育たない作物については、かなりの金額で輸入していました。
食料の生産力はそのまま国力になりますので、その不安定さが、モンゴル帝国が完全にユーラシア大陸を制覇できなかった理由の一つでしょうね。一番の原因は内ゲバですが。

日本では「モンゴル=元寇」の話題ですけれども、チンギス・ハンの死後100年までの間は同国も割とまとまっておりました。元寇のときの皇帝はフビライ・ハン。チンギス・ハンの孫で、皇帝としては5代目、かつモンゴル帝国に中国風の国号である「元」を名付けた人でした。
帝国の首都をモンゴルのカラコルムから、中国の大都(北京の前身にあたる都市)に移したのもフビライ・ハンです。

しかし、フビライ・ハンが亡くなって50年も経たないうちに、元の力は衰え、中国のあっちこっちで反乱を起こされるようになります。そしてその中に、明王朝の初代皇帝となる朱元璋もいました。
朱元璋もまた卓越した軍事能力で出世し、連戦連勝した人物です。そしてついに、元は中国から追い出され、故郷のモンゴルに帰ることになりました。
これ以降の元は「北元」と読んで、中国に本拠を置いていた頃と区別して呼んでいます。

中国史では「前漢・後漢」や「西晋・東晋」などでおなじみですが、「たった一文字で国の勢力が大きく変わったことがわかる」というのはなかなか便利ですね。その分順番がややこしくなりますが。
モンゴルの場合、皇帝の血筋は残っていたので、自分たちの民族や出自に誇りを持ち続けていました。しかしその誇り故にか、またしても統一と内紛を繰り返すようになります。なぜ数百年前の轍を踏むのでしょう(´・ω・`)
アレコレやっているうちに中国北東部の民族である女真族に力負けするようになり、ついに元の皇帝であることを示す玉璽(ハンコ)を渡すという屈辱にも遭っています。

一方で、チンギス・ハンの血筋は方々で続きました。なんと、20世紀まで「チンギス・ハンの子孫しか王様になれない」という国があったのです。
チンギス・ハンがいかに崇められていたかがわかりますね。

今なお残る「内モンゴル自治区」の問題

モンゴル本国は、17世紀から少しずつ清王朝の支配下に入っていきました。
ここでもチンギス・ハンとその子孫に対する敬意や、実質的な統治のしやすさが考慮されてか、モンゴルは「同盟国」として扱われます。

アヘン戦争以降、清でも一時「西洋風のやり方を取り入れなければ、滅ぼされてしまう」という危機感が高まり、近代化が試みられたときには、モンゴルでもいくつか実施されています。しかしこれは、モンゴルの畜産を減らし、農耕を進めるという面もありました。平たく言えば、「外国のために先祖代々の家業を放棄しなければならなくなった」ことになります。
それでもこの時点では、モンゴルの人々は次第に農民へと転換していき、比較的穏やかに済みました。

そうした流れがあったので、20世紀初頭に清で辛亥革命が起きたとき、モンゴルも「今こそ独立すべきだ!」という機運が高まります。そして、正式に独立を宣言したのが1911年12月29日。

しかし、支援を頼んでいたロシアがあまり協力的ではなかったこと、中華民国にも張作霖や袁世凱などの実力ある軍人がいたことで、モンゴルはすんなり独立できません。独立宣言を自治宣言に格下げさせられた上、今日「内モンゴル自治区」と呼ばれている地域については、中華民国の支配下のままになってしまったのです。
これは現代でも尾を引いていて、モンゴル系住民が独立運動をすると、だいたい中華人民共和国にアレコレ妨害されています。……妨害以上のこともゲフンゲフン。その後、ロシア革命でロシアが帝政から社会主義国家に移るまでのどさくさに紛れて、中華民国はモンゴルの自治権をも撤回させてしまいました。

政経ともに明るい、今後の日蒙関係

中国に続きソ連の軍人にも引っかき回されて、すったもんだを繰り返しながら、1924年、モンゴル人民共和国という社会主義国家が誕生しました。

「社会主義は人類には早すぎる」と評される通り、この国もうまくいきません。
うまくいった――と言っていいのは、首都をそれまでの「フレー」から「ウランバートル」に改名したことくらいで、宗教禁止および僧侶の強制還俗、富裕層からの家畜没収など、それまでのモンゴルを根こそぎ否定するような政策ばかりやっていたのです。当然反乱も起きました。
また、第二次世界大戦中はノモンハン事件や、ソ連の軍事介入後に宣戦布告するなど、日本とも久々の接点ができています。どちらも嬉しい話ではありませんが。
ソ連に捕らえられた日本兵捕虜のうち、1万2000人ほどはモンゴルに送られたといわれています。

とはいえ、将来に目を向ければ、日蒙関係がお先真っ暗というわけでもありません。
小泉首相の頃には、モンゴルのナンバリーン・エンフバヤル首相(当時)から「ノモンハン事件の日本人犠牲者の遺骨収集を進めても構いませんよ」という話が出ていますし、大相撲などで、日本人にとってモンゴルは親しまれる存在となっていますよね。
内政的にも、ソ連解体以降は社会主義をやめ、国名も「モンゴル国」と改めました。

最近では、社会主義時代に下火になっていた国内の遺跡発掘などにも力を入れており、この面でも新しい発見が期待できそうです。
貧富差の拡大やお偉いさんの汚職、内モンゴル問題など、まだまだ課題はたくさんありますが、頑張って前に進んでいってほしいですね。

長月 七紀・記

参考:モンゴルの歴史/Wikipedia

 



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