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飛鳥・奈良・平安時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

【衣冠・束帯・直衣・狩衣】の違い、わかります? 平安時代のモテはファッションで決まる!

更新日:

「今日の晩御飯、何食べよっか?」
とか
「明日、着ようと思ってた服が洗濯したばかり! 生乾きはカンベン><;」
とか
「今度、住むなら吉祥寺で、井の頭公園の池の水ぜんぶ抜いてみたい」
とか。

人は常に【衣食住】のことが気になりがち。
同時にそれは、楽しみの一つでもあるでしょう。

しかし。
これが歴史となると、途端に興味の失せるジャンルですよね……。

『竪穴式住居は寒くないのか?』ぐらいの感想を抱くことはあっても、例えば平安時代の貴族が何着てるか?と問われても、漠然と「十二単ですよね……」ぐらいの印象ではないでしょうか。

もったいないなぁ。

当時の空気に触れるには、やっぱり食べ物や衣服が最も身近。
理解してないから遠ざけてるだけで、いわゆる食わず嫌いなだけかもしれません。

そこで今回は、平安時代の【衣食住】、特に男性の衣服である【衣冠・束帯・直衣・狩衣】を中心に見てみたいと思います。
なぜなら十二単よりも大変だったから><;

 

京都は温暖湿潤だったので

平安時代は現代よりは寒冷だったと考えられています。

が、それでも世界的に見れば、日本の京都は温暖湿潤な気候。
四季が楽しめる一方で、湿度の高さはさまざまな点に影響しました。

衣服については、袖口や裾の幅を広くしたり、空気が通るようなゆったりした形になっています。

奈良時代によく用いられていた「朝服」と比べてみると、その形の違いがハッキリ。
朝服は中国の役人の服装である「常服」を模倣したもので、日本の服装よりもコンパクトにできています。

長安(現・西安市)をはじめ、中国の歴代王朝の首都はだいたい内陸部にありましたから、風を通さないほうが都合が良かったのかもしれません。
日本も中国も、朝服や常服を使っていた頃の夏は厳しかったでしょうね。

 

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衣冠、束帯、直衣、狩衣

現代では「女性はスカートもパンツスタイルも楽しめる」という点からか、女性のほうがファッションのバリエーションが多い傾向があります。

が、平安時代の貴族は逆でした。
男性のほうがいろいろな服装をしています。

それは主に四種類ありまして。

・宮中に出仕するときに着る
「衣冠(いかん)」「束帯(そくたい)

・普段着として用いる
「直衣(のうし)」「狩衣(かりぎぬ)

衣冠/wikipediaより引用

束帯/wikipediaより引用

衣服の作りの細かい違いは割愛しますが、見分けるポイントとしては二つあります。

まず、冠を被っていれば衣冠か束帯です。
そして、昼ならば束帯、夜ならば衣冠となります。

元々は束帯が宮中での勤務服として使われていました。
しかし、束帯は締め付ける部分があるなど、一日中着ているには窮屈なものでしたので、少し改良して衣冠が生まれたのです。

このため、
・衣冠を「宿直(とのい)装束」
・束帯を「昼(ひの)装束」
と呼ぶこともあります。

現代でいえば、自衛隊で普段使う「常装」と、外交儀礼や皇居に出入りする際に使う「礼装」が分けられているのと似たような感じでしょうか。こちらには昼・夜は関係ありませんが。
そう考えると、現代の学生さんが日常生活から冠婚葬祭まで、学校の制服で全て用が足りるというのは便利ですね。

ちなみに
「衣冠束帯というのは、存在しないの?」
と思われる方もいるでしょうか。

これは、公家の日記や文学作品などで
「衣冠を着ている人と束帯を着ている人」
をまとめて書く際に用いられる表現でして。

「衣冠束帯」という名称の衣服はございません。あくまで「衣冠」と「束帯」の組み合わせなんですね。

 

モテのためには服がめっちゃ大事!

直衣と狩衣についても、ポイントだけさらっておきましょう。

直衣/wikipediaより引用

狩衣/wikipediaより引用

直衣の外見は、ほとんど衣冠と変わりません。
「多少くつろげるが、フォーマルさもある」という感じでしょうか。

最大の違いは、衣冠は身分によって色や模様が決まっていたのに対し、直衣にはそれがない点です。
現代でいえば、オフィスカジュアルという感じですかね。

平安時代の公家は朝早く起きて出仕し、昼頃には退出するという生活がメインでした。
その後は、和歌などの芸を磨いたり、公家同士のお付き合いで家に招いたり招かれたり……といったパリピ的な集まりがあり、そこで衣装センスを問われたりしたのです。

特に女性にアプローチしたい場合は大変です。

・衣装の色や模様が季節にあっているか?
・色の取り合わせは美しいか?

なんてことが大きなポイントになったりするのでして。
ドン小西じゃないんだから、とツッコミたくなる場面ですよね。

公家の女性が男性と会話するときは基本的に御簾越しです。
なので、衣装の色から人柄を推測するのがセオリーでした。

衣装の趣味が良ければ、
「今通ったあの方はきっと趣味の良い素敵な人だろうから、もし機会があったらお話ししてみたいわ」
となるわけです。

もちろんこの時代のことですから、身分の高い女性から手紙や歌を送るということはあまりなかったと思われます。
しかし、男性からすると「この辺に素敵な女性はいないだろうか? オシャレに気合いを入れて、あらかじめ好感度を上げておこう!」となるわけです。

現代だったら、細身スーツやジャケパンでまとめておけば、それなりに決まるから楽でしょうかね。

狩衣は文字通り「狩り」をするときに使っていた服で、現代では神職の方が日常着としています。

他の3つと比べると動きやすいため、時代が下るに従って公家の普段着になりました。
源氏物語で光源氏がお忍びで出かけるシーンで、狩衣を着ていることがありますね。

もっと後の時代には公的な場面でも使えるようになり、武家の礼服にもなっています。
とはいえ、やはり宮中へ行く際などは、正装である束帯が使われました。

西郷どんで藤木直人さんが演じている阿部正弘の肖像画がその一例ですね。

阿部正弘/wikipediaより引用

 

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「十二」というのは「たくさん重ね着」と捉える

女性の衣服は、やはり十二単と呼ばれる女房装束が有名でしょう。

といってもこれは正式な名称ではありません。
「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」という服装が高貴な女性に仕える女房に使われていたことからきています。

実際に12枚も重ね着していることはあまりなく、気候に合わせて五枚や七枚などに調整していたようです。
要は、この「十二」というのは、「たくさん重ね着してました」という意味で捉えた方がスッキリするかもしれませんね。

上記の通り、高貴な女性とその周りの女房は、あまり男性の前に顔を出しません。
御簾に近づけば目鼻立ちくらいはわかったかもしれませんが、それよりも御簾の下から見える袖口の色合わせがアピールポイントになりました。

春夏秋冬それぞれの季節にふさわしいとされる組み合わせの他に、季節を問わず使えるパターンも決まっていました。
が、おそらくは自己流にアレンジする女性も少なくなかったと思われます。

というのも、「ある女性が服の色合わせに迷ってあれもこれも着込んでしまい、ろくに動けなくなってしまった」というような話が、平安時代には散見されるからです。

この時代の着物は掛け布団を兼ねるくらい大きなものですから、さもありなん……というやつです。

また、女房たち自身が男性とお近づきになりたい場合だけでなく、「ここの女房たちはセンスがいいな」と思ってもらうことにより、主人であるお姫様の評判を高めるという点も重要でした。

男女問わず、下々の者の振る舞いがその家の歌風や趣味の良さを表すとも考えられたからです。
これは、現代の我々が飲食店などに行ったとき、店員さんの接遇マナーや雰囲気で「また来よう」とか「系列の店にも行ってみよう」とか「二度と来るか!」と思うのと似たようなものですね。

他には「細長」という女性用の衣服があったとされています。
が、鎌倉時代以降に廃れてしまい、どんなものだったのかわからなくなってしまいました。
だからこそ、十二単の存在が際立つわけで。

ただし、細長は『源氏物語』などにも出てくることから、少なくとも平安時代中期には日常的に着られていたはずです。
今後の研究に期待しましょう。

 

単調な食事情 醤油も砂糖もなかった

平安時代の公家は、かなり単調な食事をしていました。
なにせ、現代の和食の「さしすせそ」のうち、醤油も砂糖もないのですから。

さらに、京都は海から遠いため、魚介類はほとんど塩漬けや干物。
かぶや大根など、京の近郊で採れる野菜などは羹(あつもの)というお吸い物に近い料理にして出すこともあったようです。

・仏教の影響で肉食が禁じられていた
・食にこだわることは欲に繋がるので好ましくないという価値観

そんなことも平安時代の食が発展しなかった理由と考えられています。

なにせ卵ですら殺生に繋がるとして、あまり好まれてはいませんでした。
養鶏をしていたらしき記録はあるので、仏教への信仰が厚い人や、生臭さが気になる人は避けたのかもしれません。

あるいは、そういった縛りが公家ほど厳しくないような、低い身分の人が食べるものとみなされていた可能性もありますね。
サルモネラ菌などが原因で食中毒になった人がどれぐらいいたのか不明ですが、経験則として「卵はヤバイ」と思われていた……というのもありえるかも。

一方で、果物の種類は意外なほど多彩でした。
栗・梨・ヤマモモ・アケビ・木苺などが食べられていたようです。

晩年の藤原道長が糖尿病だったという話は有名ですが、当時よく飲まれていた「にごり酒」の他に、果物の食べ過ぎだった可能性もありましょう。

 

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平等院鳳凰堂 もとは源融の別荘だった

平安時代の住居といえば、やはり【寝殿造(り)】ですね。
おおざっぱにいうと「寝殿(母屋)といくつかの対(たい/別館)が渡り廊下で繋がり、庭を持つ公家や皇族のお屋敷」のことです。

はじめの頃は寝殿にその家の主人と正妻、対に住むのは子供や側室、というパターンが多かったようです。

そのうち、庭に面している寝殿は儀式場や宴会場という役割に変わり、主人夫妻は北側に設けられた対を住まいにするようになりました。
正妻のことを「北の方」と呼ぶことがあるのは、ここからきていると思われます。

また、側室を対に迎えると正妻やその実家との関係が悪化するおそれがあるため、同じ屋敷に二人以上の妻がいる、というケースはさほど多くはなかったと思われます。

これについては『源氏物語』で光源氏の養女・玉鬘を無理やり自分の屋敷に迎えた髭黒の右大将が、正妻と大ゲンカしているのが良い(悪い)例ですね。
おそらく、紫式部がどこからか聞いた話を元ネタにしたのでしょう。

当時は京都のあっちこっちに寝殿造のお屋敷があったはずです。
それが後年の戦乱(主に応仁の乱)や災害などにより、現存しているものはごく一部。
数少ない例が、十円玉の裏に刻まれている【平等院鳳凰堂】です。

平等院鳳凰堂はお寺としての面が有名ですが、元々は嵯峨源氏の一員である源融(みなもと の とおる)の別荘でした。
それが宇多天皇とその孫・源重信、そして藤原道長の手に渡り、最終的には道長の嫡男・頼通によってお寺に改装されたものです。

源融といえば、死後も執着した河原院も有名ですね。
こちらは後年に火災が相次ぎ、今では全く面影がなくなってしまっています。

ほかに、当時の建物で特徴的なのは、末法思想から来た阿弥陀堂がありますね。

平安時代ド真ん中の西暦1000年頃から
「この世は仏様の教えが通じなくなる! もうおしまいだー!」(超訳)
という【末法思想】が広く信じられ、極楽往生を願って阿弥陀如来を祀るお堂を建てる者がたくさんいたのです。

いつの時代も苦しい時の神(仏)頼みは変わらないんですなぁ。

あまりにも昔のことなので、現代人からすると平安時代は異次元にも等しく感じます。
が、文化の面では現代に生きているものも多く存在します。

受験勉強のための暗記だけでなく、平安時代をテーマとした施設で楽しんでみるのもいかがでしょうか?

有名どころでは平泉の「えさし藤原の郷」や、徳島の「旅殿 御所 社乃森」など。
そういった経験があれば、印象にも残りやすいですしね。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「衣冠」「束帯」「直衣」「狩衣」「国風文化」 国風文化/wikipedia

 





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