1494年のイタリア/wikipediaより引用

ローマ イタリア その日、歴史が動いた

19世紀までバラバラな国だった「イタリア統一運動」の流れをスッキリ解説!

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ロシアの南下はロシア以外誰も得をしない

そのサルデーニャ王国では、敗戦した責任を取ってカルロ・アルベルトが(イヤイヤながらに)退位。
代わってヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位すると、まずシューベ……カヴールを首相に任じ、統一のため外交を推し進めるよう命じます。

カヴールとイタリアにとっては幸運なことに、このころ東のほうではロシアとオスマン帝国がぶつかり合ってクリミア戦争が起きていました。

当時の滅茶苦茶なヨーロッパで、国境を越えて団結する理由としては最適です。
なんせロシアの南下はロシア以外誰も得をしませんからね。

どちらかというとイタリアはオスマン帝国との因縁がデカイんですけども、カヴールは「ンなこと言ってる場合か!今が恩の売り時じゃい!!」と一蹴。
オスマン帝国とその味方についたイギリス・フランスが疲弊したところへ颯爽と無傷の援軍を送りつけ、見事、英仏両国と交渉の糸口をつかみます。

カミッロ・カヴール/wikipediaより引用

カヴール、すごいっす!

特に、ナポレオンがいなくなったとはいえ大国であり続けていたフランスとは、
「ウチの領地ちょっとだけさしあげますんで、オーストリアと戦うときにはよろしく」
という約定を交わしました。

 

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二次イタリア統一戦争の勃発

これが面白くないのはあっちこっちで戦争に参加していたガリバルディです。

なぜかというと、この「与えられたちょっとの領地」の中に、彼の出身地・ニッツァ(現フランス領・ニース)が含まれていたからです。
彼は大人だったので、途中で不穏な空気をかもし出したりはしたものの、私憤に囚われ続けはせずイタリア統一のため働きました。

ジュゼッペ・ガリバルディ/wikipediaより引用

そして第二次イタリア統一戦争が勃発します。
ざっと見積もって軍事力の内訳は以下のとおりです。

サルデーニャ軍7万+フランス軍15万
vs
オーストリア軍24万

見るからに大規模な戦争で、最大の激戦地ソルフェリーノでは両軍合わせた死傷者・行方不明者が4万を超えたほどでした。

勝ったのはサルデーニャ(+フランス)でした。
が、オーストリアもまだイタリアを手放す気はないので、要求は受け入れられません。

また進展ナシかと思いきや、このときは二つの点でイタリア統一へのコマが進みます。

一つは、諸々の理由でフランスがイタリア方面から手を引くと言い出したこと。
もう一つは、イタリア内の他の国で「やっぱよそ者をアテにしちゃいけねえ!やろうぜお前ら!」という機運が高まり、サルデーニャ王国周辺から少しずつイタリア統一の兆しが見えてきたことです。

後者についてはフランスが「ウチそんなこと聞いてませんけど!っていうかアンタらが新たな大国になると迷惑なんですけど!」と自己中以外の何者でもない言いがかりをつけてきましたが、ニッツァとサヴォイア(現フランス領・サヴォワ)を割譲することで丸め込みました。

話だけでなく本当に故郷が他国のものになってしまったガリバルディは機嫌を損ねたものの、彼は大人だったので(ry

 

テアーノの握手

その代わり、イタリア南部の両シチリア王国で起きた蜂起を鎮圧しようと、独断で千人隊(赤シャツ隊)を率いて現地に向かいます。

よそ者の登場で混乱するかと思いきや、実戦経験豊富なガリバルディはあっさりこれを収め、ついでにナポリへ向かってサルデーニャ王国本体とは別の路線からアプローチしていきました。
言葉より行動でガリバルディの意図を感じ取ったのか。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世も軍を率いて南下し、合流を目指します。

そして両者はイタリア中部のテアーノという街で会談を持ちました。

【テアーノの握手】と呼ばれる出来事です。

ここで空気を読んだガリバルディが「諸君、ここにイタリア王がおられるぞ!」と発言、それまでに得ていた南部諸地域を差し出し、めでたくイタリアのほとんどが統一された……という美談と絵画が伝わっていますが、現実にはもっと冷淡なものだったようです。

ガリバルディの熱意と能力は本物ですけれど、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世やサルデーニャ王国のお偉いさんからすれば「勝手に出て行ってドンパチやってた」としか思えないですからねえ。

 

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約1200年ぶりに一つの国になるも……

こうして西ローマ帝国が滅亡してから約1200年ぶりに長靴半島は一つの国になったのですが、この時点ではまだ現在のイタリア共和国と同じ範囲にはなっていませんでした。
首都もフィレンツェでしたしね。

ヴェネツィアを中心としたヴェネト地方など「未回収のイタリア」と呼ばれるあたりはまだオーストリアの勢力下だったのです。

ここで再びオーストリア……とその戦争相手であるプロイセンが絡んできます。

自分達中心にドイツ民族を統一したいプロイセンは、かつて神聖ローマ帝国の盟主であったオーストリアが鬱陶しい存在でした。
ゆえに、その力を削ぐ方法を模索していたのです。

オーストリアも神聖(ry)がなくなったとはいえ、黙ってやられるわけにはいきません。
そして当然の如く戦争に発展します。

ちなみにこの二国間で戦争になるのは約120年の間で3度目だったりします。
もう少し話し合いとか平和的解決とか、努力したほうが良いと思うんだなぁ……。

 

ようやくオーストリア帝国から脱出

プロイセンとオーストリアのゴタゴタは、イタリアにとって完全独立する絶好のチャンスでした。

「オーストリアをボコってヴェネト地方を取り戻したいんで、プロイセンさんとこにつきたいんですが」
「おk」
ということで【イタリア=プロイセンの同盟】が結ばれ、第三次イタリア統一戦争が起こります。

このときガリバルディはもはや王国に戻るつもりがなかったのか、別働隊で参戦。
イタリア王国軍が負けた後も奮戦し、オーストリア軍を破ったのはガリバルディの隊だったというのがなんとも皮肉な話です。

まぁ、イタリア統一から第三次イタリア統一戦争まで5年しか経っていないので、最初から無茶な話ではあったんですよね。

この戦争は、プロイセンが「もうここらで勘弁してやっか」というタイミングで講和を結んだため、第一次・第二次の統一戦争時よりも比較的あっさり終わります。

負けたオーストリアは「ヴェネト地方をイタリアへ返すこと」を含んだプロイセンの要求を飲まざるを得なくなり、当初の目的は達成されました。
ちなみにオーストリアがプロイセンに負けるのも3度目です。だから話し合えってば(´・ω・`)

しかしまだまだ「未回収のイタリア」は残っており、これは第一次大戦まで尾を引くことになります。
このとき1866年ですから、半世紀もの間、領土問題を残したままだったんですね。

 

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ピウス9世が強固に抵抗して

イタリアの首都といえばローマですね。
この頃はまだピウス9世(ローマ教皇)が頑張っていて、なかなか支配下に治められません

ピウス9世 (ローマ教皇)/wikipediaより引用

すっかり険悪な仲になってしまったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディでしたが、二人の間で珍しく意見が一致したのがローマをイタリアの首都にすることです。

ガリバルディはピウス9世ローマ教皇があまりにも非協力的なことに対してブチキレ。
単独での占領を試みますが、ピウス9世がフランスに泣きついたため失敗してしまいます。

しかし数年後、プロイセンがフランスにケンカを吹っかけたことでフランス軍は帰国せざるを得なくなり、教皇の周りはガラ空き同然になりました。
むろんフランス軍がとんぼ返りしてきたらひとたまりもないですから、イタリア軍は充分に機会を見計らってローマを占拠します。

イタリア軍側としては教皇をブッコロすわけにもいきません。
「もうそろそろ仲良くしませんか」と寄り添おうとしたら、ピウス9世はだだをこね続け「私はバチカンの囚人である」という言葉を発表します。

訳すと「信徒に裏切られた私チョーかわいそう!何も間違ってないのに!」というものですから、後世から見るとお前は何を言っているんだとしか。
でもこの御方、列福(カトリックで聖人の次にエライ人のこと)されてるんですよね。ワケワカメ。

これには放置プレイが唯一の対策であると決めたイタリア王国も、儀礼的なもの以外の接触を止め、正式に首都をフィレンツェからローマに移します。

ここにイタリア統一運動=リソルジメントは終わりを迎えました。めでたしめでたし。

 

ガリバルディの葬儀を盛大に執り行った

その後中心になった二人はどうしたのかというと、最終的には似たような感じでした。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は戦争ばかりで疲れたのか、そろそろ体にガタがきたのか、その後は議会の監督など大人しい仕事をしていました。

ガリバルディは別の戦争に参加しながら、最終的にはカプレーラ島という島に隠棲し、穏やかな生活をしていたそうです。

わだかまりを抱えたまま分かれるような形になった二人でしたが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が亡くなった後、イタリア王国の王に即位した息子のウンベルト1世は、ガリバルディの葬儀を盛大に執り行っています。

ウンベルト1世/wikipediaより引用

少なくとも国王のほうは感謝の念を持っていたのでしょう。

たとえ方針が気に食わなくても、母国統一のために協力し合った姿はまさに大人の対応といえるもので、ヴォルテール先生の「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(ただし原典は不明)にも似ている気がします。

イギリスを(海賊)紳士の国とするならば、イタリアは「大人の国」というところですかね。いろんな意味で。

長月 七紀・記




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【参考】
イタリア統一運動/wikipedia
イタリアの歴史/wikipedia

 



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