1879年(明治十二年)3月14日は、かの天才科学者アルベルト・アインシュタインの誕生日です。
比喩でもなんでもなく、誰もが名前と相対性理論のことは知っているでしょうから、今更、科学的な話をするのはやめておきますね。
というか理解できないんですよね、ドウモスミマセン><;
ということで日本との関わりをちょっと振り返ってみたいと思います。
実はアインシュタインは”かなりの親日家だった”ということでも知られた人物なのです。
「命の危険を感じた」と感じるほどの熱狂振り
アインシュタインは、ドイツにいた頃から日用品に東洋趣味な物を使っていたとのこと。
日本びいきを決定付けたのは、1922年の来日です。
すでに相対性理論を発表した後で、日本人の間でも誰もが知る存在になっておりました。
当時の貨幣価値で3円(オペラの席料と同じくらい)という高額な入場料であったにもかかわらず、全国7ヶ所で行われた講演には計14,000人が詰めかけたといいます。
特にすごかったのは仙台に到着したとき。
アインシュタイン自身が「命の危険を感じた」と感じるほどの熱狂振りだったとか。
まるでビートルズのような歓待ぶりですが、科学者に対しこれだけの群集が集まったというのは彼だけなんじゃないでしょうか。
最近の学者さんといえば「ナントカ賞を受賞しました!」というタイミングでしか注目されませんしね。
好きな食べ物は天ぷらと昆布です…って、昆布!?
一ヵ月半ほどの多忙なスケジュールの中。
合間をぬって各所で能や博物館を見学したり、松島で月見をしたり、アインシュタインは日本文化を存分に堪能したそうです。
外国人には受け入れづらいであろう味噌汁や海藻にも挑戦し、好きな日本の食べ物として天ぷらと昆布を挙げています。
順応性がパネェです。そういやチャップリンも、海老の天ぷらにどはまりしておりましたね。
とはいえ何もかもすべて好意的に見ていたわけではなく、人力車に乗るよう勧められたときは断固として拒んだとか。
車夫さんのことを「奴隷労働でこき使われている」としか思えなかったようです。
まあ、確かに欧米の価値観で行くと「車を引くのは動物の役目」という観点だったでしょうから仕方ない。
あれはあれで誇りあるお仕事なんですけどね。現代もも引き継いでいる方もいますし。
講演で訪れた中では、東北大学(当時は東北帝国大学)を評価していたとか。
後に「アインシュタインが”将来我々の良い競争相手になる”と書いていたから」という理由で同校を訪れた科学者もいるほどです。
上記の歓迎振りや松島の風景と共に、日本で一番印象に残った地域だったのかもしれませんね。
日本が将来世界を担うという予言は…
ちなみに「アインシュタインが”日本こそ将来世界を担う存在になる”と予言した」(意訳)という話は、はっきりしたソースがないようです。
記録されていない=ウソっぱちというわけではありませんが、たぶん「日本に肩入れしていた」というのがエスカレートしてそういう話に集約されてしまったのでしょうね。
歴史にはありがちな誇張かなぁ、と。
また、「本当は他の人の発言や文章なのに、いつの間にかアインシュタインが言ったことになっている」という文言もかなりたくさんあるようです。
言葉の意味は変わりませんし、それだけ彼が偉大な存在であるということを示唆するものではありますが……ちょっとコワイ。この辺、なんでもかんでも鵜呑みにせず、我々も冷静にならないとダメですね。
アインシュタインが亡くなって、まだ60年ちょいなのに、これほど大げさに話がふくらむというのが実にオソロシイ。
もっと昔のことや、政治体制が違った頃、記録が少ない時代のことは尚更でしょう。
まぁ、いつの時代のどんなことでも「100%」なんてそうそうないですけど、できれば近づけたいものですよね。
長月 七紀・記
【参考】
アルベルト・アインシュタイン/Wikipedia