ピカソやダリはお金持ちなのに俺ときたら(Wikipediaより)

その日、歴史が動いた 画家

ゴッホが自殺を図った理由はなに?狂気の天才画家、その生涯

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1890年(日本の明治二十三年)7月27日、フィンセント・ファン・ゴッホが拳銃自殺を図りました。
「ひまわり」「種まく人」などの作品で、ピカソなどと並ぶ有名な画家ですね。

現在では世界中に知られている人なので、さぞ生前はひっぱりだこだったろうと思いきや、その生涯は灰色どころか鉛色と表したほうがしっくりきそうなほど重苦しいものでした。

 

アーチストにもコミュニティ能力が必要だとは…

もともとゴッホは生まれつき人付き合いが苦手といいましょうか。
他人に関心のない性格だったようです。

小さいときも、友達と遊ぶより一人で虫や植物の観察・スケッチをしたり、散歩をするのが好きという内向的な子供でした。
もちろんこれは「ネクラってやーね」という話ではなく、むしろ芸術家には向いている性格です。

しかしこれが生涯ゴッホ自身を苦しめることになってしまいます。

ゴッホは自画像の多さでも有名ですが、自らの経歴や絵を描き始めたきっかけなどについて誰かに話したり文章に書き残していません。
そのため、いつ頃画家になろうと志したのかははっきりわからないものの、学校を出た後は画商に勤めるなど、もともと絵に関わる世界に身を置いていました。

画商時代のゴッホ(Wikipediaより)

 

画商から聖職者へ転職…失敗

しかし、画商とは「商人」ですから。
芸術に関わってはいてもやはりお金を儲けることに比重を置いて考えており、ゴッホはやがて「ここで働くのは性に合わない」と思うようになります。
雇う側でも同じだったようで、七年ほどでゴッホは解雇されてしまいました。

安定した職についていてほしかった両親は衝撃を受けたようですが、本人はその頃聖書などキリスト教関連の本を読みふけっており、「聖職者になりたい」と思っていたのであまり気にしなかったようです。

この間に失恋等も経験しており、厭世的な気分が強まっていたのかもしれません。

まだ20代半ばのことではありましたが、今だって「何もかもうまく行かなくてイヤになった」という同年代の若者は多いですから、むしろゴッホが”普通の感覚”も持っていた証左になりますね。

しかし牧師になるためには、神学校を出なくてはいけません。
ゴッホにとっては金銭的・学力的に難しかったため、教会で説教をするよりも、旅先で聖書を教え広める伝道師になろうと志しました。

が、牧師や神父と違って伝道師は必ずしも人々に受け入れられるものではなく、またゴッホ自身の自罰的な行動(パンしか食べないような極端な粗食、自らの体を痛めつけるなど)によってかえって不信感を与えてしまい、資格を取り上げられてしまいます。

これは家族にとっても異様に見えたようで、心配した父親がしかるべき施設で治療を受けさせようとしたのですけれども、ゴッホにとっては至極マトモなことだったので拒絶しました。

 

リア充な弟の経済的援助で画家を目指す

ゴッホが本格的に絵の道を志したのは、その後のことであると考えられています。
同時に弟テオドルスから経済的援助を受けるようになりました。

家族ともうまく付き合っていたとはいえないゴッホですが、この弟だけは例外。
画商時代からずっと手紙のやり取りをしていたため、兄を心配してのことだったのでしょう。

ですが、地道に努力を重ねて作品を描き上げても、同時代の画家と知己になっても、彼の人付き合いの下手さや極端かつ異様に見える行動は改善されませんでした。

フランスの画家・ゴーギャンと同居していたこともあります。

「私たちは意見が合うことはほとんどない。ゴッホは私の絵を気に入ってくれているのだが、”こことそことあそこが間違っている”というように口を出してくるし、私の絵をいじられるのは我慢ならない」(意訳)

とまぁ、こんな風にゴーギャンに言われていますから、絵ではない日常生活の細かな点ではもっと衝突していたでしょう。

 

自分の耳を切って女性にプレゼント

実は、ゴッホは自殺の前にも自ら耳たぶを切り落とすという事件を起こし、病院に入院させられています。

しかもその耳たぶをとある女性に渡すという異様ぶりで、もはや「人に理解されること」を完全に諦めたかのような言動が続いていました。

その後も「星月夜」など名画を描いているだけに、どうしてこうなってしまったのかと思わざるをえません。

耳たぶ事件から後は入退院を繰り返し、幻覚や幻影に苦しめられ、服毒自殺も何度か試みています。

それでいて正常なときは素晴らしい作品を描いており、これには治療する医師や看護婦も戸惑ったようです。

おそらくゴッホ自身にとっても、なぜこのように苦しむのか、なぜ未だ正気に返るときがあるのかと混乱していたことでしょう。

耳たぶをきったあとの自画像(Wikipediaより)

 

死の直前には作品が評価されだしていた

皮肉なことに、ときを同じくして画壇でゴッホの作品が評価され始めています。

しかし、テオドルスがそのことを知らせても、ゴッホにとっては既に他人からの評価は癒しにも慰めにもならなくなっていたようです。

「ゴッホが自殺したのは、長年自らの作品が評価されず、弟に経済的負担をかけ続けたことを苦にして」
というのが定説ですが、このあたりから見るとまた別の理由が隠れている気がしますね。

ゴッホの主治医ガシェ氏(Wikipediaより)

しかも最晩年にゴッホを診ていた医師については、妹への手紙で「心身ともに僕によく似た人で、兄弟のように気安く接することができる」(意訳)と書いていますし、少なくともその当時は治療への希望を持っていたのではないでしょうか。

残念ながら、その医師に診てもらうようになってから約2ヵ月後にゴッホは亡くなってしまうのですけれども……。

種まく人(Wikipediaより)

 

1発目の銃弾は誰が撃った?

ゴッホの直接の死因は二発の銃弾を受けたことによる失血死です。
どこかへ出かけた後、体の中に銃弾が残った状態で戻ってきたため、自らに発砲=自殺したといわれています。

今際の際の様子は一部分だけテオドルスが妻宛の手紙に書いており、いわく「兄は、”このまま死ねればいいのだが”と言っていた」そうです。もしかすると、ずっとそう思っていたのかもしれません。

いくら才能があっても、認められないままでは不安にも精神的な病気にもなるでしょうし、狂気の合間に正気が戻ってくるというのは想像を絶する辛さだったでしょう。

はっきりした経緯がわからないため「ゴッホは自殺ではなく二人の少年によって射殺されたのでは?」という説もあります。

この仮説では「酒の席で一緒にいた少年が銃で手遊びをしていたところうっかり発砲、ゴッホに命中してしまった」と推測されています。
が、ゴッホには”子供好きだった”とか”近所付き合いが良かった”等の逸話がないので、何だかリアリティに欠ける説のような気もします。

唱えた人はゴッホの手紙等から言動を推測してこの説を発表したそうなので、全く信憑性がないわけではないのですけども。

その人いわく「子供たちを庇うためにゴッホは詳細を言わなかった」としていますが、むしろちゃんと言わないと直近まで一緒にいた人が疑われるのは当然ですよね。
半年ほどしてテオドルスが亡くなっているためか、「弟が犯人では?」という説もあるくらいですし。

いずれにせよゴッホの素晴らしさとこの日亡くなったことは揺るがない事実ではありますが、やはり真実が解明される日がくるのを願うばかりです。

ひまわり(Wikipediaより)

長月 七紀・記

【参考】
フィンセント・ファン・ゴッホ/wikipedia

 



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