昭和五十一年(1976年)8月23日は、東京で安楽死国際会議が開かれた日です。
重苦しい話題ではあります。
が、多くの人にとっては全くの他人事でもありません。
最近は安楽死についても細分化されてきているので、その辺の事情から見ていきましょう。
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古代ギリシアではトリカブトでの安楽死が認められていた
まずこの考え方は大きく分けて、
・積極的安楽死
・消極的安楽死
の2つがあります。
積極的安楽死は、薬物の投与などによって直接死に至らしめることです。
殺人との区別が難しいところで、いくつかの裁判で判断基準が示されています。
係争中のものもあるので詳細は割愛しますが、ご興味のある方は以下の事例を個々にお調べください。
「山内事件(名古屋)」
「東海大学附属病院事件」
「町立国保京北病院事件」
「川崎協同病院事件」
日本で安楽死の是非が問われるときは、上記事件にあてはまるかどうかが焦点になるケースが多いですね。
歴史的に見ると、特に医療の発達していなかった古代において、積極的安楽死は多々行われたものと思われます。
古代ギリシアではトリカブトを用いた積極的安楽死が認められており、実行されることも珍しくありませんでした。
どうでもいい話ですが、ギリシア神話では、トリカブトは地獄の番犬ケルベロス(頭が三つある犬)のよだれから生まれたとされているそうです。
犬のよだれで死ぬことに対して、当時の人はどう思っていたんですかね。
哲学者として有名なソクラテスも、積極的安楽死に賛成していたそうです。
おそらく彼に
「死ねばすべてが無になるのだから、恐れることはない」
という信念を持っていたからでしょうね。
一方で、ほぼ同時代に生きていた西洋医学の祖・ヒポクラテスは、
「患者を死に至らしめるのは医療ではない」
として、患者から求められても積極的安楽死をしようとはしなかったとか。
現代の医学校の方針や医師の倫理を示したジュネーブ宣言などの元になった【ヒポクラテスの誓い】にも、「依頼されたとしても、人を殺す薬を与えない」とはっきり記述されています。
ソクラテスとヒポクラテスの意見の違いは、今日の安楽死に関する議論でもほぼ同じですね。
当時のギリシア人すげえ。
延命措置をあえてしない消極的安楽死
消極的安楽死は、延命措置をあえてしないことによって、自然に死を迎えさせることです。
末期がんなど、完治が難しい状態の人が受けるターミナルケア(終末医療)は、消極的安楽死のひとつともいえるでしょう。
延命措置はせずとも、その日をできるだけ苦痛なく迎える工夫はできるわけですから。
これについては、世界的に有名なアメリカのカレン・クインランという女性の例があります。
彼女は友人に招かれたパーティーでドレスを着るために、過激なダイエットをしていました。
しかしそれが原因でパーティーの最中に意識不明となり、呼吸不全によって脳に回復不能なほどの損傷ができてしまいました。
カレンの家族は「回復できないのなら、人工呼吸器を外してください」と病院に頼みましたが、病院側は倫理的な観点からこれを拒否。
家族は諦めず、裁判に持ち込んで勝訴しました。
結果的に人工呼吸器は外され、その後9年間生存し、最期は肺炎で亡くなったそうです。
キリスト教圏では「自殺に繋がる」として、安楽死に否定的な見方が強かったのですが、カレンの事件をきっかけに、一般の人々の間でも前向きに議論が進むようになりました。
安楽死が認められているオランダ・ベルギー・ルクセンブルクと、アメリカの一部の州については、この事件後、もしくはカレンの人工呼吸器が外されてから亡くなるまでの間に合法化されています。
スイスだけは、カレンの事件以前から安楽死を認めていたので例外ですけれども。
また、アメリカやカナダの一部の州では、自殺幇助(自殺したい人に協力すること)を合法化するという形で、広義的に安楽死を認めるという方法を取っているところもあります。
日本でも合法化を求める動きも
日本では、安楽死自体にまだ共通の言葉の定義がないためあまり使われていませんが、日本尊厳死協会という団体では、おおむね消極的安楽死のことを指しているようです。
名前の通り「個人の尊厳が保たれる形での死」を指すとすれば、かつての切腹も尊厳死に含まれるかもしれませんね。
むろん現代ではありえないとしても、当時は名誉な死とされていましたので。
いずれにせよ積極的安楽死の認められていない日本でも、合法化を求める署名活動などは行われています。
世論調査でも「単なる延命治療はやめるべきだ」「苦痛をできるだけ和らげる方法に移行すべきだ」と考える人は多数派。
しかし、積極的安楽死については多くの人が反対しているのが現状です。
こうした世論に対応した結果、最近ではターミナルケア(終末医療)が主流になってきているのでしょう。
ただし、近年の介護・福祉業界の諸問題や、家族自身が支えきれない事による苦痛など、これはこれで問題も出てきています。
どこかのタイミングでもう一度、安楽死について広く議論する必要があるでしょう。
高齢化社会に向け、孤独死問題も減るかもしれない
今は第一次ベビーブーム(昭和二十二~二十四年)生まれの人が70歳を超えています。
ここからしばらく、新たに「高齢者」となる人は減りますが、第二次ベビーブーム(昭和四十六~四十九年)の世代に再び増えます。
時期的には2030年代後半くらいですね。
その頃、64歳未満の人がそれを支えきれるのか……という不安は、誰しも感じていることでしょう。
一生を独身で終わる人も珍しくありませんし、一人で自宅で亡くなると、本人としても他人や行政からしてもいろいろと問題が残ります。
安楽死を制度化すれば、そういった死後の心配は少なくなるのではないでしょうか。
もちろん、二重・三重に意志を確認することは前提として、金銭的な理由など、行政の助けを得ることで解決できる場合には安易な安楽死を思いとどまるよう説得したり、間違いのないようにしなければなりません。
「◯◯歳になったら安楽死」
そんな安易な方向に世論が流れていくことも防がねばならないでしょう。
生を選べなければ、死に選択肢があっても良い?
また、全然別件ではありますが、もし安楽死が制度化すれば、数年に一度現れる「人を殺して死刑になりたかった」という戯け者の抑制に繋げられるでしょうか。
理屈だけ言えば「一人で死にたいのであれば安楽死制度を利用すればいい」という話になります。
むろん連中の言い分はあくまで屁理屈でしかなく、結局は実行ありきなのかもしれませんが、もしも本当に死を望んでいる者も含まれているとすれば、もしかしたら、という思いはあります。
ただ、一方で、そんなことがまかり通るならば安易な死が増えてしまい、大きな社会問題になることは必至でしょう。
だからこそ慎重論も根強くなる。
安楽死を制度化するのであれば、あくまで単独ではなく、行政・福祉の一環、かつ最後の手段として残された道にしないといけませんね。
なんにせよ、生まれるときと場所、さらには親を人は選べません。
だったらせめて、死ぬときくらいは自分で選ぶ選択肢があっても悪くはないと思うんですがね。もちろん常識の範囲内で。
長月 七紀・記
【参考】
安楽死/wikipedia
日本尊厳死協会
九州医事新報社
カレン・クィンラン/wikipedia
リビング・ウィル/wikipedia
東海大学安楽死事件/wikipedia
川崎協同病院事件/wikipedia
日本国憲法
刑法