1902年(明治三十五年)8月22日は、映画監督のレニ・リーフェンシュタールが誕生した日です。
日本人からすると性別がどっちかわからない名前ですが、女性です。
この時代に女性監督というのも珍しいですが、彼女の場合、それ以外にも他の監督とは一線を画していました。
さっそく生涯をみていきましょう。
【TOP画像】レニ・リーフェンシュタール公式サイトより引用
ベルリン生まれの才媛に独裁政権の手が伸びる
レニの本名は、ベルタ・ヘレーネ・アマーリエ・リーフェンシュタールといいます。
ベルリンの裕福な家庭に生まれ、美貌と体力を生かして、21歳のときダンサーとしてデビュー。
その後、女優として活動していた時期を経て、30歳のときに主演・監督を務めた「青の光」という映画が、ヴェネツィア国際映画祭で銀賞に輝き、監督に転身します。
しかし、1902年生まれで30歳というと1932年であり、その翌年には、ヒトラー率いるナチスが政権を取っています。
運の悪いことに、レニはヒトラーに目をかけられてしまったのです。
そりゃあ、女性で美人で優れた才能があるとくれば、利用価値は大いにありますものね。
そんなわけでレニは、ナチスのための記録映画を多く撮影することになります。
党大会の様子を撮ったものもありますし、ベルリン五輪の記録映画「オリンピア」はヴェネツィア映画祭最高賞を受賞しており、国外でも高く評価されました。
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愛人だから、あの頃は何をしても許されたんだ!
しかし、自信と政治的な後ろ盾を得たことにより、かなり強引なやり方や高飛車な振る舞いがあったのも事実でした。
そのためにレニは戦後、「ナチスへ積極的に協力した」として、世間からフルボッコにされてしまいます。
しかもこういうときにお約束の愛人疑惑まで言い立てられました。
「アイツの愛人だから、あの頃は何をしても許されたんだ!」
彼女がヒトラーに心酔していたのは事実ですが、女性が権力者に近づくとなぜすぐに愛人疑惑が噴出するんですかね。
明らかにそういう素振りがあったならともかく、下世話すぎます。ヒトラーには別の愛人がおりましたし。
また、当時の状況で目をかけられ、表立ってナチスに反抗していれば命に関わる問題であったでしょう。
もし彼女が逆らったとしていたら、後に批判する人たちはそこでレニを庇ったでしょうか。
連合軍は一度レニを逮捕しておりますが、取り調べで「積極的に関与したわけではない」と結論づけ、釈放しています。
一般人がどう思ったところで、それ以上は下衆の勘繰りでしかありません。
それでもレニは国内外のジャーナリストから誹謗中傷を受け続けました。
ときには「レニ映画のせいで、ナチスの洗脳が広まった!」という批判まであったと言います。
メディアには「大衆にウケれば何でもあり!」という特性がありますので、ジャーナリストも民衆も潜在的に攻撃先を求めていたのかもしれません。
こうした理不尽な攻撃に対して彼女は公的に立ち向かい、訴訟を起こして裁判で勝っています。
一方、罪なき作品への評価は低迷したままでした。
なんと理不尽なことでしょう……。
スーダン・ヌバ族の写真を見て再びカメラを……
その後、レニはある出会いによって再びカメラを手にすることになります。
1962年に事故に遭って入院していたところ、スーダン・ヌバ族の写真を見たのです。
スーダンはエジプトのすぐ南にある国で、ヌバ族とは農耕・牧畜を営み、独自の格闘技文化を持つ黒人系民族。
彼らの写真から、独自の文化や生き様に惹かれ、レニはヌバ族の村を訪れるようになりました。
しかし、当時のスーダンは(も)内戦の真っ最中ですから、そう簡単に入国・撮影許可は下りません。
レニは粘り強く交渉を行い、無事に許可を得てヌバ族の取材を10年間続け、写真集「ヌバ」を出版しました。
こうして写真家として再スタートを切った彼女は、71歳にしてスキューバダイビングのライセンスを取り、水中撮影にも挑戦しています。
年齢を20歳もごまかしたそうですが、よくそれで書類が通ったものですよね。
確かに、この頃のレニは70代とは思えないような若々しさなのですが。
40歳下の夫に看取られ101歳で亡くなる
写真集を出版した後も、レニはアフリカへ通い続けました。
しかし、98歳のときに内戦中のスーダンで、乗車中のヘリコプターごと墜落するという大事故に遭ってしまいます。
普通なら即死でもおかしくない状況です。
が、天はまだ彼女に仕事を残していました。
ちょうど100歳のとき、最後の映画作品「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」を公開するのです。
45分という短編映画ですが、世界各地の海に広がる原色の風景を数多く撮影。
解説もないので、動く写真集といったところでしょうか。
彼女自身の最期も、とても静かなものでした。
亡くなる前年に、長年助手を務めてきたホルスト・ケトナーという40歳年下の男性と結婚しており、そのケトナーに看取られての最期でした。
ケトナーいわく、自然に心臓が止まり、穏やかに亡くなったそうです。
長月 七紀・記
【参考】
レニ・リーフェンシュタール/wikipedia
レニ・リーフェンシュタール公式サイト