1968年(昭和四十三年)8月22日、当時のローマ教皇パウロ6世が、教皇としては初めて南米大陸を訪問しました。
「パウルス」6世と表記することもあり、教皇になる前はジョヴァンニ・モンティーニというお名前ですが、パウロ6世で統一しますね。
この方はイタリア出身で、まぁ教皇らしい生まれ育ちと言えなくもないですが、それ以上にカトリック教会がそれまでやらなかったことをいろいろやった教皇として有名です。
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63歳で教皇になったパウロ6世
パウロ6世が、教皇の候補となるカトリックNo.2の地位・枢機卿になったのは1958年。
61歳のときですが、それ以前から数々の偉業で知られていました。
生まれたのが1897年ですから、この間に二つの世界大戦を体験していることになります。
その中で貧しい人々や家庭の事情で困難な状況にある人への救済を試み、外交経験なども経て、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトにも尊敬されていたそうです。
また、戦後大司教として着任したミラノでも労働者の救済を心がけ、教区内にある村や町をほぼ全て訪問し、人々を励まし続けました。
こうして絶大な人気と実績を持つパウロ6世でしたので、1958年に当時の教皇ピウス12世が亡くなると、枢機卿ではなかったにもかかわらず即座に候補者として取りざたされるようになります。
さすがに一足飛びに教皇になることはできませんでした。
が、ピウス12世の後の教皇・ヨハネス23世が1963年に亡くなると、満場一致でその座に就きます。
ときにパウロ6世、63歳――教皇としては若い年齢でカトリックを率いる立場になりました。
精力的に世界中を飛び回る「旅する教皇」
この若さを生かしてか。
パウロ6世はとにかくアグレッシブに活動しました。
飛行機やヘリコプターで各国を巡り、冒頭に挙げたラテンアメリカや中東へも訪問。
異宗派である英国国教会や各正教のお偉いさんとも会合し、さらにはエルサレムにまで行っています。
それまで同じキリスト教を信じていながら、宗派や人種などの理由で存在していた【壁】を飛び越えたのです。
おそらく、この方ほど差別的視点のない教皇はいなかったでしょう。
距離的には飛行機で数時間とはいえ、文字通り世界を飛び回ったパウロ6世には
【旅する教皇】
というキャッチフレーズもつけられました。
これは後に【空飛ぶ聖座】と呼ばれたヨハネ・パウロ2世が記録を塗り替えますが、それでもパウロ6世の偉業と姿勢は揺らぎません。
訪問先では、神が云々と言うよりも「世界平和」を主軸とした演説を行い、国際連盟の存在意義や各国の協力によって平和が保たれるという主張をしています。
また、他の宗教を排斥することなく相互理解を促したり、無神論者の考え方を研究するなど、まさに公平な視点を持った人でした。
これぞ正しき聖職者の姿という感じですね。
ワタクシ特に信仰はありませんけども、こういう方だったら信頼も尊敬もされるだろうなと思います。
カトリック教会というといかにもお堅いイメージがありますが、パウロ6世以降少しずつ内部の制度が変わったり、世俗の変化に応じてコメントを出したりと、必ずしも一辺倒というわけではないようです。
その後も変化する教皇スタイル
例えば、パウロ6世の後に就任したヨハネ・パウロ1世は、豪奢だった戴冠式を簡素な就任式へ変え、現在まで続いています。
上記のヨハネ・パウロ1世は100カ国以上という脅威の外交スケールを誇りました。
少しでも訪問先の言語を学んで演説をしたことでも知られています。
来日時には日本語にも挑戦していました。
その次のベネディクト16世は、
・950年ぶりのドイツ人教皇
・史上最高齢での教皇就任
・600年ぶりの生前退位
という三冠?を達成しています。
退位の理由はナニかと戦ってフォースを使い果たしたとかネットでは言われてますが……そんなバカなまさか。
そして現在は初のアメリカ大陸出身である教皇フランシスコ(2013年~)がその責を担っています。
また、”名誉教皇”となったベネディクト16世と史上初めて「元教皇・教皇の会食」を実行しました。
こうしてみると、ここ半世紀の間にかなりの変化をしているんですね。
ここまで変わると中の人もいろいろ大変かとは思いますが、今まで明るみに出てこなかった問題が出てきたりなど、良い方向に向かっているのではないでしょうか。
これまでの歴史からすると随分丸くなったものです。
できればこのままパウロ6世の説いた通り、世界平和を祈って貢献する団体であってほしいです。
長月 七紀・記
【参考】
『図説 ローマ教皇 (ふくろうの本)』(→amazon link)
パウロ6世(ローマ教皇)/wikipedia