真珠湾攻撃で攻撃を受けた戦艦カリフォルニア/wikipediaより引用

世界史

真珠湾攻撃そのとき米国本土のアメフト競技場では「将軍早く帰って!」

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真珠湾攻撃のとき米国本土では?
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プレーオフを決めた選手たちは翌日の新聞に呆然

可哀想なのが出場選手達です。

以下「スポーツ今昔」(Sports Then and Now)というサイトの話を読むと、気の毒過ぎて泣けてきます。

チームによっては、この日がシーズンの決着を付ける重要な日。つまり、プレーオフがかかった決戦日だった所もあったのです。

本来なら「NFLプレーオフに✕✕(チーム名)進出」てな見出しで、それなりに報じられるはずだった……。

「それなりに」と断ったのには理由があります。

当時は、今ほどの人気が無かったのです(有名なスーパーボウルは1967年から)。

テレビは殆ど普及してなかったので、中継と言えばラジオ。それ以外の人は、直に見る以外ありませんでした。

まぁ、だからこそ選手にしたら目立ちたいって思いがあった事でしょう。

さて、当時6チームの順位はどうだったのか。

まず、地区優勝しプレーオフ出場が決まっていたのはニューヨーク・ジャイアンツ。そして、もう1つの枠を賭けて戦っていたのが、シカゴ・ベアーズとシカゴ・カーディナルズでした。

書くのもアレなんですが、ヘイトさんが応援しようとしていたレッドスキンズ対イーグルス戦だけが「来季こそ!」以外のモチベーションが見当たらない試合。

であるならば、余計に、双方のファンの熱き声援こそが必要なはず。

それが試合会場ガラ〜ンとなってしまったのですから選手の心中いかばかりか。

普通に考えて最も気の毒そうなのがシカゴの試合でしょう。

双方にとって譲れない展開な所なのに、ファンだって「ここで気合い入れて応援せずして、ファンと名乗れるかい!」と必死のパッチ(©矢野燿大)で応援したかった筈。

あぁそれなのに……アナウンス入りまくり。

「軍人の皆様、配属先に御連絡を」との叫びが、シカゴのコミスキー・パークに鳴り響いたのです。

「エエ所やのにのぅ」と、渋々席を立ち、公衆電話で順番待ちする兵隊さん。

列の前の人が「何ですって!? はい、直ちに!」と叫ぶなり、受話器を置いて疾走した事は想像に余りあります。

ちなみに、試合は34対24でベアーズがカーディナルズを破っています。ベアーズファンの軍人さん、ご愁傷様です。

なお、ウィキペディアの英語版(→link)によると、チャンピオンシップ決定戦は12月21日に開催。

真珠湾奇襲の2週間後(現地時間)に行われました。

試合は37対9でベアーズの勝ち。

ファンにとっては快哉を叫ぶべき試合だったのでしょうけど、観客数は1万3341人とふるわず、当時のタイトル戦では最低だったそうです。

まぁ、それどころじゃないですもんね。

 

気の毒な選手筆頭タフィー・レイズ

そうした気の毒な選手の筆頭にいたのが、ニューヨーク・ジャイアンツのフルバックを務めていたタフィー・レイズでしょう。

先の殿堂のページによると、球団側は長年の活躍を称え、この7日を顕彰デーにしていたのです。

本名はアルフォンス・エミール・レーマン。1912年生まれでしたので、選手としては当時円熟期です。

1936年にジョージ・ワシントン大学の選手としてカレッジ・オールスターでMVPに輝いています。

休暇中だったジャイアンツのオーナーの息子さんが、たまたまワシントン大学とアラバマ大学戦の試合を見ていて「凄い選手がいるよ! ジャイアンツで是非とも取って」と懇願したという逸話があります。

アメリカン・ドリームを体現したようなエピソードですね。実際。同年のドラフト2巡目でジャイアンツに入団しています。

そして入団1年目から大活躍でした。

何しろ、この年だけで830ヤードを駆け抜け、ルーキーとして唯一、オール・リーグ・チームに選ばれていたほどです。

ディフェンスに優れていた選手だったそうで、ジャイアンツが毎年のように優勝争いが出来たのもレーマンの存在があればこそ。

実際、1938年には優勝しています(ちなみに、殿堂には彼の活躍ぶりを紹介したページがあるぐらい)。

で、この日は「タフィー・レーマンズ・デー」を設定していたわけです。

銀のトレーと時計と1500ドルの戦時国債を贈呈し、ファンともども盛り上がるはずだったのですが……。

ちなみに、こちらにはウィリアム・ドノバン大佐が観戦していました。

戦後、CIAを創設したアメリカ情報機関の父とも言える存在ですが、勿論、呼び出しを受けています(→link)。

思いっきりケチがついた格好ですね。

それが祟って1941年の優勝をシカゴ・ベアーズにさらわれていったのかもしれませんな。

タフィー自身は1943年に引退しますが、2年前の日をどう思いながらフィールドを後にしたのでしょうか?

 

フィールドから戦場に1000人が出征した

戦争の始まりは、選手達を押し流していきました。

先のスポーツ今昔(→link)によると、第二次世界大戦中に戦地に旅立っていった選手は約1000人いたそうです。サイトの方ではリスト化しています。

その全部を紹介する訳にはいきませんが、12月7日のポスト・シーズン進出を賭けたシカゴ戦の両チームの選手の「その後」を、サイトでは紹介しています。

奇しき縁というか、何人かは太平洋戦線に配属されているのですね。

カーディナルズのマーシャル・ゴールドバーグは翌年もチームで活躍しましたが、43年に1試合だけ出場後に応召。

南太平洋に、海軍軍人として任務に就いています(ウィキペディアの英語版によると大尉にまでなったそうです)。

選手生命を絶たれるような大怪我もせず、46年に復帰して優勝に貢献、48年に引退していました。

沖縄戦に参加したのが、ベアーズのヒュー・ガラニューです。

翌年の優勝に貢献後、海兵隊に入隊。少佐にまで昇進し、航空警戒部隊の一員として戦いました。45年にはベアーズに復帰し、優勝に貢献しています。

戦死してしまった人も、当然います。

ベアーズのヤング・ベッシーがその一人ですね。1940年に入団すると、ディフェンシブ・プレイヤーとして活躍し、41年には5回のタッチダウンを決めています。

翌42年に海軍に入隊、大尉に昇進しますが、1945年1月のフィリピンのリンガエン湾での戦いで命を落としました。

なお、戦死したのは両球団の選手だけではありません。

ジャイアンツのジャック・ラマスとグリーンベイ・パッカーズのハワード・スマイリー・ジョンソンは、それぞれ硫黄島での戦いで散華しています。

なお、硫黄島で亡くなったのは選手だけではありません。

カーディナルズでコーチをしていたジャック・チェブゲニーも、その人です。

中には、遂に花開く事無く亡くなっていった人もいます。

こちらはニール・キニックが典型と言えましょう。

1940年のドラフト2巡目でブルックリン・ドジャーズに指名されたものの、これを蹴ってアイオワ大学のロースクールに進み、真珠湾奇襲の3日前に海軍に応召。

戦闘機のパイロットとして訓練中の43年に事故死しています。

こうして命を落とした選手は23人にのぼり、coldhardfootballfacts.comというサイトで哀悼されています。

当たり前ですが、やはり戦争は絶対に避けなければなりませんね。

南如水・記

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