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【真珠湾攻撃のとき米国本土では?】
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プレーオフを決めた選手たちは翌日の新聞に呆然
可哀想なのが出場選手達です。
以下「スポーツ今昔」(Sports Then and Now)というサイトの話を読むと、気の毒過ぎて泣けてきます。
チームによっては、この日がシーズンの決着を付ける重要な日。つまり、プレーオフがかかった決戦日だった所もあったのです。
本来なら「NFLプレーオフに✕✕(チーム名)進出」てな見出しで、それなりに報じられるはずだった……。
「それなりに」と断ったのには理由があります。
当時のNFLは、現在ほどの人気が無かったのです(有名なスーパーボウルは1967年から)。
テレビは殆ど普及してなかったので、中継と言えばラジオ。それ以外の人は、直に見る以外ありませんでした。
まぁ、だからこそ選手にしたら目立ちたいって思いがあった事でしょう。
さて、当時6チームの順位はどうだったのか。
まず、地区優勝しプレーオフ出場が決まっていたのはニューヨーク・ジャイアンツ。そして、もう1つの枠を賭けて戦っていたのが、シカゴ・ベアーズとシカゴ・カーディナルズでした。
書くのもアレなんですが、ヘイトさんが応援しようとしていたレッドスキンズ対イーグルス戦だけが「来季こそ!」以外のモチベーションが見当たらない試合。
であるならば、余計に、双方のファンの熱き声援こそが必要なはず。
それが試合会場ガラ〜ンとなってしまったのですから選手の心中いかばかりか。
普通に考えて最も気の毒そうなのがシカゴの試合でしょう。
双方にとって譲れない展開な所なのに、ファンだって「ここで気合い入れて応援せずして、ファンと名乗れるかい!」と必死のパッチ(©矢野燿大)で応援したかった筈。
あぁそれなのに……アナウンス入りまくり。
「軍人の皆様、配属先に御連絡を」との叫びが、シカゴのコミスキー・パークに鳴り響いたのです。
「エエ所やのにのぅ」と、渋々席を立ち、公衆電話で順番待ちする兵隊さん。
列の前の人が「何ですって!? はい、直ちに!」と叫ぶなり、受話器を置いて疾走した事は想像に余りあります。
ちなみに、試合は34対24でベアーズがカーディナルズを破っています。ベアーズファンの軍人さん、ご愁傷様です。
なお、ウィキペディアの英語版(→link)によると、チャンピオンシップ決定戦は12月21日に開催。
真珠湾奇襲の2週間後(現地時間)に行われました。
試合は37対9でベアーズの勝ち。
ファンにとっては快哉を叫ぶべき試合だったのでしょうけど、観客数は1万3341人とふるわず、当時のタイトル戦では最低だったそうです。
まぁ、平時と変わらずイベントを開催している事自体が驚異的かもしれませんが。
気の毒な選手筆頭タフィー・レイズ
そうした気の毒な選手の筆頭にいたのが、ニューヨーク・ジャイアンツのフルバックを務めていたタフィー・レイズでしょう。
先の殿堂のページによると、球団側は長年の活躍を称え、この7日を顕彰デーにしていたのです。
本名はアルフォンス・エミール・レーマン。1912年生まれでしたので、選手としては当時円熟期です。
1936年にジョージ・ワシントン大学の選手としてカレッジ・オールスターでMVPに輝いています。
休暇中だったジャイアンツのオーナーの息子さんが、たまたまワシントン大学とアラバマ大学戦の試合を見ていて「凄い選手がいるよ! ジャイアンツで是非とも取って」と懇願したという逸話があります。
アメリカン・ドリームを体現したようなエピソードですね。実際。同年のドラフト2巡目でジャイアンツに入団しています。
そして入団1年目から大活躍でした。
何しろ、この年だけで830ヤードを駆け抜け、ルーキーとして唯一、オール・リーグ・チームに選ばれていたほどです。
ディフェンスに優れていた選手だったそうで、ジャイアンツが毎年のように優勝争いが出来たのもレーマンの存在があればこそ。
実際、1938年には優勝しています(ちなみに、殿堂には彼の活躍ぶりを紹介したページがあるぐらい)。
で、この日は「タフィー・レーマンズ・デー」を設定していたわけです。
銀のトレーと時計と1500ドルの戦時国債を贈呈し、ファンともども盛り上がるはずだったのですが……。
ちなみに、こちらにはウィリアム・ドノバン大佐が観戦していました。
戦後、CIAを創設したアメリカ情報機関の父とも言える存在ですが、勿論、呼び出しを受けています(→link)。
思いっきりケチがついた格好ですね。
それが祟って1941年の優勝をシカゴ・ベアーズにさらわれていったのかもしれませんな。
タフィー自身は1943年に引退しますが、2年前の日をどう思いながらフィールドを後にしたのでしょうか?
フィールドから戦場に1000人が出征した
戦争の始まりは、選手達を押し流していきました。
先のスポーツ今昔(→link)によると、第二次世界大戦中に戦地に旅立っていった選手は約1000人いたそうです。サイトの方ではリスト化しています。
その全部を紹介する訳にはいきませんが、12月7日のポスト・シーズン進出を賭けたシカゴ戦の両チームの選手の「その後」を、サイトでは紹介しています。
奇しき縁というか、何人かは太平洋戦線に配属されているのですね。
カーディナルズのマーシャル・ゴールドバーグは翌年もチームで活躍しましたが、43年に1試合だけ出場後に応召。
南太平洋に、海軍軍人として任務に就いています(ウィキペディア英語版によると大尉にまでなったそうです)。
選手生命を絶たれるような大怪我もせず、46年に復帰して優勝に貢献、48年に引退していました。
沖縄戦に参加したのが、ベアーズのヒュー・ガラニューです。
翌年の優勝に貢献後、海兵隊に入隊。少佐にまで昇進し、航空警戒部隊の一員として戦いました。45年にはベアーズに復帰し、優勝に貢献しています。
戦死してしまった人も、当然います。
ベアーズのヤング・ベッシーがその一人ですね。1940年に入団すると、ディフェンシブ・プレイヤーとして活躍し、41年には5回のタッチダウンを決めています。
翌42年に海軍に入隊、大尉に昇進しますが、1945年1月のフィリピンのリンガエン湾での戦いで命を落としました。
なお、戦死したのは両球団の選手だけではありません。
ジャイアンツのジャック・ラマスとグリーンベイ・パッカーズのハワード・スマイリー・ジョンソンは、それぞれ硫黄島での戦いで散華しています。
なお、硫黄島で亡くなったのは選手だけではありません。
カーディナルズでコーチをしていたジャック・チェブゲニーも、その人です。
中には、遂に花開く事無く亡くなっていった人もいます。
こちらはニール・キニックが典型と言えましょう。
1940年のドラフト2巡目でブルックリン・ドジャーズに指名されたものの、これを蹴ってアイオワ大学のロースクールに進み、真珠湾奇襲の3日前に海軍に応召。
戦闘機のパイロットとして訓練中の43年に事故死しています。
こうして命を落とした選手は23人にのぼり、coldhardfootballfacts.com(→link)というサイトで哀悼されています。
当たり前ですが、やはり戦争は絶対に避けなければなりませんね。
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南如水・記