シートン

アーネスト・トンプソン・シートン/wikipediaより引用

学者・医師

シートン動物記 筆者の知られざる苦労と功績 こうしてロボは描かれた

皆さん動物は好きですか?

嫌な思い出があったり生理的に嫌いだったり、アレルギーがあって近寄れなかったり。

事情は人それぞれあるでしょうが、基本的には、見ていて和むことが多いですよね。

本日はそういった動物の厳しい一面も書き留めた、とある作家のお話。

1946年10月23日は『動物記』でお馴染みアーネスト・トンプソン・シートンが亡くなった日です。

動物もしくは本がお好きな方なら、一度は読んだことがあるかと思います。

実は挿絵もシートンが描いているってご存知でしたか?

シートンは当初小説家を目指していたわけではないのです。

どんな経緯だったのか、さっそく見ていきましょう。

 


12人の末っ子シートン 英国からカナダへ

シートンはイギリスのサウスシールズという町で、12人きょうだい末っ子として生まれました。

この時代に12人ってご両親は大変でしたねぇ……。

案の定?父が事業に失敗すると、カナダに移住。

家族計画も影響していたのでしょうか。

ただシートンには悪くなかったようで、自然豊かなカナダで森へ頻繁に出かけるようになり、高校卒業後博物学者になろうとしました。

しかし当初は、父親に反対されて諦めざるを得なくなり、父の勧めるままに画家の道に入っています。森で見た動物の絵も描いていたようなので、それを父に見られたのかもしれません。

「トーチャンの言うことくらい無視してもいいじゃん」という気もしますが、シートンの父は当時としても異常なレベルの厳格な人物だったので、逆らいきれなかったのでしょうね。

どのくらい厳しいかというと、シートンが成人したとき、今までの養育費の明細を見せて「返せ!(`・ω・´)」と言ったほどです。

シートンパパは熱心なキリスト教徒でもあったそうなのですが、キリスト教的にお金にがめついのはNGじゃないのかとかいろいろツッコミたいところです。主もイエスも聖霊も激おこですわ(多分)

 


王太子・大主教・首相から一生使えるパスポート

そんなこんなでオンタリオ美術学校を卒業後、シートンは19歳で単身イギリスに渡ってロイヤル・アカデミー絵画彫刻学校に留学しました。

このとき入学試験の課題の絵の参考にするため、大英博物館と併設されている図書館に出かけています。

当時、大英博物館の図書館は21歳未満は入場禁止だったため、一悶着起こります。

しかし館長がシートンの熱意に心を打たれ、「イギリス王太子・イギリス国教会の大主教・首相から許可をもらえれば、21歳未満でも入れるんだけど」と教えてくれました。

どうしても図書館に入りたかったシートンは、ダメ元でこの三人に手紙を書きます。

おそらく館長を説得したのと同様、熱意に溢れた手紙だったのでしょう。

幸運にも返事と許可が送られてきて、シートンは一生図書館を使えるというパスポートを手に入れることができました。

こうして、周囲(国のお偉いさん含む)の理解によって、大英博物館および図書館を利用できるようになったシートンは、その立場を最大限に利用。

昼間は博物館でいろいろなものをモデルに絵を描き、夜は図書館で閉館ギリギリまで本を読みふけるという、実にうらやましい生活を始めたのです。

 


カナダに戻り、思うがままに暮らしていたら

ちなみに、欧米ではこういった公共施設の利用料が無料であることも多く、その辺もうらやましい話ですね。

まあ、日本だと文化や芸術に税金使うと「無駄遣い」って言う人が一定数いるから仕方ない(´・ω・`)

あと、大英博物館の場合はその有名さもあいまって、運営が成り立つほどの寄付金を得られていることも理由だと思われます。

閑話休題。

そんなわけで立場をフル活用していたシートンでしたが、無理がたたって体を壊し、カナダの両親の元へ帰る事になりました。

おそらくトーチャンと揉めたのでしょう。

その辺の詳細は不明ながら、カナダに戻ったシートンはしばらくして体調を戻すことができました。

兄の経営する農場を手伝いながら森を歩いたり。

動物の記録を書き留めたり。

着実に将来の下地を積み重ねていっています。

その後は数年間、挿絵の仕事や絵の勉強のために外国へ行ったこともありました。

が、自然と離れるのが嫌で、その度に帰国したそうです( ゚д゚)ポカーン

まあ……人間生まれ育ったところに近い環境のほうが落ち着きますしね。

 

魔物と呼ばれた巨大狼ロボ

30代に入ると生活も少し落ち着き(?)、博物学者として働いたり、専門書を書いたりもしていました。

そして、ニューメキシコでシートンの人生を変える出会いが訪れます。

「動物記」の代表作の一つでもある、狼のロボです。

本当に「ロボ」という通称の狼がいたのか。

それともシートンの経験の集大成として書いたのか。

ハッキリとはしていないのですが、今回は前者として話を進めていきますね。そのほうがわかりやすいですし。

ロボはニューメキシコで「魔物」とまで呼ばれていた巨大な狼で、牛を引きずるほどの力と、狼にはあるまじきレベルの知性を持っていたそうです。

そのため農場の被害もケタ違いで、家畜だけでなく多くの猟犬も被害に遭遇、ハンターもお手上げ状態でした。

学術的な対策が必要と判断され、シートンのもとへ

「ロボを何とかしてください(´;ω;`)」(※イメージです)

という依頼が舞い込んできたのです。

シートンの知識をもってしてもロボをすんなり捕えることはできず、しばらくの間追跡と観察を続けることになりました。

そして、あるとき「群れの中で、ロボが大切にしている狼がいる」ということに気付きます。

群れ唯一のメスの狼でした。

白い毛色であることから「ブランカ」(スペイン語で「白」)と呼ばれていたそのメス狼は、ロボの伴侶だったのです。

体格も頭も良くて彼女がいるとか……。

シートンはブランカを捕らえればロボも捕まえられると判断し、その通りに罠を張りました。

ブランカは罠にかかると同時に絞め殺され、息絶えたブランカを見たロボは理性を失い、今まで簡単に回避してきた罠にかかってしまいます。

そして捕われの身となりましたが、与えられた餌や水には全く口をつけず、そのまま餓えて死んでしまうのです。

人間でも、奥さんに先立たれた旦那さんが病気になってしまったという話がままありますよね。

 


意外な功績 ボーイスカウトの創設に関わっていた

そんなわけでロボ退治に成功したシートンは、暗澹たる気持ちでニューメキシコを後にします。そりゃそうだ。

その後アメリカに移り住み、ロボをはじめとした気高い動物たちの小説を書くようになりました。

「動物記」というのは1930年代に邦訳された際のタイトルですが、「シートンの他の功績を無視する形になる」として、当時は反対もされたようです。

この「他の功績」とは、ボーイスカウトの元になった団体「ウッドクラフト・インディアンズ」の創設者でもあるという点です。

シートンはアメリカボーイスカウト連盟の理事長になったこともあり、結局、他のお偉いさんと仲違いして辞めてしまいますが、ウッドクラフト・インディアンズの活動は続けていましたし、鳥類保護に関する法律施行のために動いたりもしていました。

この辺は、日本ではほとんど知られていませんね。

ボーイスカウト創設に尽くした、パウエル卿、ダン・ベアードと共に。左がシートン。/wikipediaより引用

彼が亡くなったのは1946年10月。

86歳で没するまで、数多の文章だけでなく、挿絵も自ら描いています。

それだけでも十分に楽しめたりするんですよね。

『シートン動物記[図書館版](全15巻)』(→amazon

長月 七紀・記

【参考】
『狼王ロボ』(→amazon
アーネスト・トンプソン・シートン/Wikipedia

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