昭和20年(1945年)8月6日は、広島に原爆が投下された日。
その3日後、8月9日の長崎と同じく、誰しも粛然とした気持ちになる日でありましょう。
そうした中でスイス赤十字が、当時の広島と長崎の被爆者の治療に奔走したスイス人を顕彰していました。
swissinfo.chの記事(→link)で紹介されていた、マルセル・ジュノーという人物が、その人。
原爆が落とされた広島を最初に訪れ、治療に当たった外国人医師でした。
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投下直後に初めて現地入りした外国人医師
マルセル・ジュノーは1904年、スイスのヌーシャテルに生まれ。
外科医として修行を積んだ後、1935年に国際赤十字委員会(ICRC)に参加しました。
折しも、世界的に戦争の嵐が吹き荒れそうになっていた時代です。
国際赤十字としても、対応を巡り模索するしかありません。
そして同年1935年に、早くも最初の出番が巡って来ます。
第二次エチオピア戦争で、戦地に足を踏み入れたのです。
以後、1936年からはスペイン市民戦争でも治療に赴き、やがて第二次世界大戦に直面。
欧州と日本の戦場の両方を直に見た数少ないヨーロッパ人でもありました。
広島への現地入りは1945年9月13日ですので、投下から1ヶ月少々だった頃です。
通訳を務めた丸山幹正氏(後に『ドクター・ジュノーの戦い(→amazon)』という伝記を出版)によると、広島で精力的に治療活動を行いました。
当時、広島では大勢の被爆者が治療を必要としていて、「治療で2万人から3万人の命が救われた」(丸山氏)とのことです。
任務外の活動で人命救助をマッカーサーに直談判
興味深いのは、国際赤十字委員会の任務として、こうした被爆者の治療は想定されていなかった事でしょう。
元々来日したのも、日本国内における連合軍捕虜の処遇実態を調査するのが目的だったからです。
ちなみに、東京着が1945年8月9日でした。
事態を知ったマルセル・ジュノーは同僚と共に、降伏後に進駐したGHQへ直談判。
医療とロジスティックスが必要だとダグラス・マッカーサーを説き伏せます。
広島の凄まじい惨状を、本国に電報でも知らせました。
マッカーサーは、ジュノーに15トンの医療物資の供給します。
空輸しながら治療活動を支援する事も約束。
日本人の放射線医師や、アメリカ人の医師を連れて広島入りするなど、組織のオーガナイジングをする力にも長けていた人でした。
息子のベノイト・ジュノーさんは、後にこう回想しています。
「父は5日間、広島にいました。本当に混沌としていた中で、被爆者の治療を直に行ったのです」
日本赤十字社のKiyoshi Eouchi(すいません、調べて見たのですが日本語での綴りが分からなかったので、このまま載せます)氏も継のように絶賛しています。
「こうした膨大な量の医療物資が、生き残った人達にどれだけの希望となったか……。今となっては想像がつかないほどです」
彼の行動はそれだけにとどまりませんでした。
1946年に帰国後、広島での惨状を証言しようと、執筆に取りかかったのです。
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