文系と理系っていろいろな面で違いますよね。得意な科目だけでなく、考え方や性格にまで影響を与えることもありますし。
たまにちょうど良く中間地点にいる方もいますが、だいたいの場合とても頭のイイ人のような気がします。歴史を見ていても、ごく稀にそんなうまやらしい人が出てきますよね。
究極の例は「万能人」ことレオナルド・ダ・ヴィンチでしょうか。
さすがにそこまでではありませんが、本日はおそらくそういった類であろうと思われる方のお話です。
1791年4月27日、「モールス信号」の生みの親となるサミュエル・モールスが誕生しました。
信号=電気信号ですから、いかにも理系の勉強が得意な人のように思えますよね。
ところがどっこい、サミュエルは当初は理系とは真逆、しかも文系ではなく芸術系の人でした。
そんな彼がなぜモールス信号を生み出すことになったのか?
その経緯を見ていきましょう。
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伊・仏ではなくイギリスに渡って絵画の勉強
サミュエルはプロテスタント・カルヴァン派の牧師の父の元に生まれ、その影響を強く受けて育ちました。
そのため大学でもまず宗教哲学、そして数学を学びます。
当時から電気についても興味を示してはいましたが、この間に絵画の才能に目覚め、最終的に画家を志しました。
ワシントン・オールストンという画家にも認められ、大学卒業後はイギリスに渡り、三年間絵画の勉強をすることになります。
芸術の勉強で、イタリアでもフランスでもなくイギリスというのがミソですね。
サミュエルが留学していたのは1812~1815年ですから、フランスはロシア戦役(1812年)でそれどころじゃありませんし、イタリアはまだ統一直前で外国人がゆっくり勉強しにいけるような状況ではなかったからというのがデカいと思われます。
とはいえ、アメリカとイギリスも1812年に米英戦争(別名「第二次独立戦争」)をおっぱじめているんですが、これはサミュエルが渡海した後だったので何とかなったようです。
「アメリカ政府何してんの? バカなの?」(超訳)みたいな手紙は書いていますけどね。
イギリス人が寛容だったのかどうかはわかりませんが、留学中も真面目にやっていたようで、展覧会への出品のお誘いもあったとか。
残念ながら帰国直前だったため、実現せずに終わってしまったのですけれども、イギリスという国に対する印象は悪くなかったんじゃないでしょうか。
肖像画の製作中に「妻危篤」 早馬で戻るも既に・・・
帰国した1815年から1825年までの十年間は画家として生計を立て、元アメリカ大統領であるジョン・アダムズの肖像画を描いたこともあります。
そういったお偉いさんにツテができる程度には売れていたのでしょう。
1825年には、ニューヨークに美術の学校を作り、初代所長を務めました。
ニューヨーク大学の美術教授をしたこともあり、そのまま美術の世界でも生きていけたと思われます。
が、ちょうどその年にサミュエルの人生を大きく変える出来事がありました。
彼は1820年頃からニューヨークとボストンの間にあるニューヘブン(コネチカット州)に住んでいたのですが、あるときラファイエット(アメリカ独立とフランス革命両方で活躍したフランス人)の肖像画を制作するよう頼まれ、ワシントンへ出かけていました。
そこへニューヘブンから、「妻危篤」という知らせが届いたのです。
電話もインターネットもない時代ですから、どんなに急いでも早馬が精一杯。
サミュエルは慌てて家に帰りましたが、妻の最期を看取ることはできませんでした。埋葬まで済んでいたそうです。
現代人からすると「いやそこは待ってやれよ」と言いたくなりますが、保存技術もない時代のことですからね……。
サミュエルはよほど奥さんを愛していたのでしょう。
悔やんでも悔やみきれず、悲しみの果てに「馬よりも早く、連絡を取る方法を作り出してやるんだ!」と決意しました。
船上で~ アメリカのぜんじろうに~ 出会った~
チャンスはすぐに巡っては来ず、しばらくは画家を続けます。
1830年~1832年の3年間、彼はもう一度ヨーロッパへ絵画修行の旅に出ました。そして帰国する船の上で、運命を変える出会いを果たします。
チャールズ・トーマス・ジャウソンという学者さんです。
彼はサミュエルに鉄の芯に針金を巻きつけて電気を流す「電磁石」を使ったさまざまな実験を見せてくれたのです。
今では小学校の実験レベルですが、当時はまだ電気というものが一般的には使われていませんでしたから、手品を見物するような気持ちで見ていたのかもしれません。
サミュエルはここでひらめきます。
「これの電気を切ったり入れたりすれば、何かメッセージを送れるようになるのでは」
ここからサミュエルの発明者としての道が始まりました。
素人にもかかわらず開発から6年で実験に成功
むろん、簡単にモールス信号までたどり着けたわけではありません。
同時期に他の学者たちも電気を使った信号を考え出していて、商業化した人もいたからです。
しかし、サミュエルの方法では線が一本で済む構造になっていたため、こちらが後の主流になっていきます。
そして同時期に、モールス信号の発明が始まりました。
最初は今の符号とは全く違ったもので、その後他の人がいくつかの改変を加え、現在の形になっています。どちらにせよサミュエルが始祖であることは変わりないですけども。
当初は2マイル(約3km)程度の距離しか信号を送れませんでした。
それが1838年の実験ではメッセージを送ることに成功しております。ほぼ素人が思いついてから6年と見れば、かなり早いほうでしょう。
しかし、そこからの道も決して平坦ではありませんでした。
成果を持ってワシントンに行ったものの、既に他の学者が商業化していたため、すぐに資金をもらえなかったのです。
頭の切り替えの早いサミュエルは「それならヨーロッパでスポンサーを探そう」と考え直して三度ヨーロッパに渡ります。この考えの変えっぷりが成功の秘訣だったんですかね。
稼いだ大部分は慈善事業に使っていた
ロンドンで「もう電信は商業化されてるよ」と知ったサミュエルは、4年後再びワシントンで実験を行って自分の技術の有用性を証明。
その甲斐あってか、ワシントンからボルチモア(ワシントンとニューヨークの間にある町)間61kmの電線を引く予算を引き出すことに成功します。
設置後の通信も無事成功し、サミュエルはめでたく発明者として認められました。
しかし、競争はまだまだ続き、「電信の発明者」という地位を獲得し、権利を保持するために何回も訴訟を起こしています。
それでいて稼いだうちの大部分は慈善事業に使っていたそうですから、お金より名声がほしかったのでしょう。そもそもの発端が「妻の死を看取れなかったから」ですし。
その後はオスマン帝国やデンマークにも認められ、1851年のウィーン会議ではヨーロッパ全土でサミュエルの電信方式を標準とすることが決まりました。
踊ってるだけじゃなかったんですね、あの会議。
ただしイギリスは自国の学者が開発した方式を使っており、植民地もそれにならっています。
いなければ外国人の技術を使うのもしかたありませんが、自国の技術者がいるなら保護しなきゃいけないですものね。
美しい宝石、プエルト・リコよ!
1861年には母国アメリカでもニューヨーク~サンフランシスコの大陸横断電線にサミュエルの方式が使われ、本人の望み通り、「電信の発明者」の地位は揺るぎないものとなりました。
娘がプエルト・リコの農場主(ただしデンマーク人)と結婚したため、サミュエルも同地との縁ができ、プエルト・リコでも自分方式の電線を引いています。
彼はプエルト・リコのことがよほど気に入っていたようで、テストメッセージのテンションが尋常じゃありません。
例によってテキトーな訳と共にどうぞ。
"Puerto Rico, beautiful jewel!
(美しい宝石、プエルト・リコよ!)
When you are linked with the other jewels of the Antilles in the necklace of the world's telegraph,
(この通信によって他のアンティル諸島の島々と結ばれるのならば、)
yours will not shine less brilliantly in the crown of your Queen!"
(あなたがたの女王の輝きが失われることはないだろう!)
かなりテンション高めで、思いが伝わってきますね。
ヤボを承知でツッコむのであれば、当時プエルト・リコはスペイン領で、アンティル諸島はオランダ領だったので同じ女王を戴いているわけではありませんでした。
これよりずっと昔にオランダがスペイン(のハプスブルク家)の領土だったことはありますが、そこまで考えていってないでしょうし、その時代に女王はいませんし。まあいいか。
モールス信号は船舶の一部やアマチュア無線の世界ではまだまだ現役です。お年寄りの中にはごく稀に「戦時中に習ったのを覚えてるよ」なんて方もいらっしゃいますね。
シンプルなものほどいつどんな状況でも使えますから、当分の間は細々と使われ続ける技術の一つかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
サミュエル・モールス/wikipedia
NTT東日本・通信偉人伝(→link)※現在リンク切れ