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【タスキーギ・エアメン】
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本当の戦いは戦後 敵は「人種差別」
さて、この辺で、最近、亡くなったボーマン氏の生涯を追ってみましょう。
同氏はアイオワの州都であるデモインの出身で、地元のアイオワ州立大学に在学中、1943年に陸軍に召集。
同じ州の12人と共にタスキーギでパイロットとしての訓練を受けました。
上記のような法的な環境だったため、基地に行く際のバスも、白人とは別だったそうです。
また、白人の兵士と同じ食堂での食事をする事や、一緒に訓練する事もありませんでした。
酷い待遇でしたが、992人の訓練生ともども、怒りを呑み込みます。
戦果を挙げて、こうした偏見が間違っている事を証明できると信じていたからです。
「みんな若かったし、タフで差別には慣れっこだったんだよ」
御本人は2010年に行われたアフリカ系アメリカ人レジストリーという黒人の歴史を記録する非営利組織とのインタビューでこたえています。
「最期の1人になっても、自分達には能力があり、飛べるんだと証明しようとしたと思う。そして、何時でも何でも出来るのだと皆が見せつける事で、事態を改善したいと思っていたんだ」
しかし、遂に実戦に出る事はありませんでした。
差別との戦い方は「握手とハグ」
仕上げ段階に進んだのが1945年8月。
その8月8日に、サウスカロライナで飛行中に機体が発火し、パラシュートで脱出せねばならない羽目に陥ります。
1週間後に終戦ですので、運があるんだか、ないんだか。
ともあれ、除隊時には准尉になっていました。
むしろ、この人にとっての戦争は、第二次世界大戦後にありました。
デモインに戻り、ドレイク大学に再入学して学業を全う。
学校教員を目指すのですが、「黒人だから」という理由で門前払いを食らってしまいます。
それでも諦めず、テキサスで教職にありつきました。
その後、故郷に戻り、再び教職に就き、1989年まで40年近く務めます。
在職中は教室などで色々と差別される事もありましたが、そのたびに闘ってきました。
闘い振りは紳士です。
「握手とハグを欠かさない」
そんな静かに、相手を諭すやり口。それが実って、初の理科教師となり、校長にまで昇進します。
2009年に議会名誉黄金勲章を授与され
同僚だったコニー・クック氏はこう言います。
「彼は断定的な言い方をしないので、臆する事無く相談ができた。寛大で良い人だったし、そのパーソナリティで障壁を取り除いていったんだ」
一方で、地元の各大学と一緒に教員としてキャリアを積みたいアフリカ系アメリカ人の為に専門プログラムを作成するなどの功績も残しました。
雷を怖がる娘さんに、光と音の速度を講義し、落ち着かせるなど、良き家庭人でもありました。
なお、ボーマン氏ら200人のパイロット(物故者含む)には、2009年に議会名誉黄金勲章を授与されます。
議会からアメリカ内外で活躍した人(通常は個人が多い)に与えられる、最高の勲章です。
ちなみに、その1人が故ネルソン・マンデラ氏。
今頃、天国で勲章を見せ合っているのでしょうか?
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takosaburou・記