実はこのカレー、元はインドの独立運動家によって作られたものだとご存知でしたか?
1865年3月15日は、その運動家であるラース・ビハーリー・ボースの誕生日。
後述するエピソードから彼は「中村屋のボース」とも呼ばれます。
同姓のスバス・チャンドラ・ボースもこの時代の独立運動家として有名なので、当時から混同されやすかったとか。
本稿では、ラースの生涯と共に中村屋カレーの歴史も見てみましょう。
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チャールズ・ハーディングに爆弾を投擲!?
ラースは、イギリス植民地時代のインド・ベンガル州シャンデルナゴルに生まれました。
父のビノド・ビハリは政府新聞の書記を務めており、単身赴任していたため、祖父と母の元で育ったとされています。
ベンガル人は全体的に知的活動や起業家になった人が多く、ラースにもその素養があったようです。
また、シャンデルナゴルはインドでは数少ないフランスの植民地で、反英・インド独立を目指す団体の基盤になっていました。
こうした空気の中で育ったことが、ラースが独立活動に身を投じるきっかけだったのかもしれません。
順調に進学した後、インド兵に志願したものの、「ベンガル人は兵士に向かない」というよくわからん偏見で不合格となりました。
そこで武官がだめなら文官に、と思ったのか、デヘラードゥーンの森林研究所で事務主任として働くようになります。
父に押しつけられたようなものだったそうですが、この頃からインド国民会議を通じて独立運動に参加していたので、結果としては良い方向に働きました。
事務主任という立場が、物資の調達などに役立った……平たくいえばちょろまかすことができたのです。まあ、イギリスのインドに対するやり方もかなりアレなので、どっちもどっちですが。
この頃、当時のヒンドゥー教指導者で政治運動をしていたオーロビンド・ゴーシュの宗教哲学に大きな影響を受け、ラースは少々過激な方法も辞さなくなりました。
イギリスから来たチャールズ・ハーディングに爆弾を投擲して負傷させているのです。
チャールズはインド総督の中では割と穏健派で、大学を作ったりもしていたのですけれども。こういうときって、個々人の人柄よりも役職そのものが的になるから仕方がないですね。
この事件に加え、ラホールという町で起きた蜂起の首謀者容疑によってラースには莫大な賞金がかけられ、日本へ亡命しました。
「幕末の攘夷志士と同じだから助けなければ!」
当時の日本は、日露戦争に勝って10年ほど経過したところ。
有色人種の国々にとっては、「白人をやっつけた国」というイメージが強かったのですね……まぁ、その勝利も、イギリスの協力がなければ不可能だったということを知っていたら、日本には来なかったかもしれませんが。
日本では「ラースは幕末の攘夷志士と同じことをしている。助けなければ!」と感じた人々によって支援され、武器を調達してインドに送ることができました。
この間、やはり亡命してきていた孫文などとも親交を結んでいます。
しかし、ほどなくして「ラースが日本に逃げて、武器を送ってきている」ということがインド側にバレてしまいました。
日英同盟上、日本はラースをイギリスに引き渡さざるを得なくなり、国外退去命令を出します。
孫文が頭山満を紹介し、そして新宿中村屋へ
進退窮まったラースに対して、孫文が、アジア独立主義者の頭山満(とうやま みつる)を紹介しました。
孫文も頭山に匿われていていたので、きっと助けてくれると判断したのでしょうし、実際、頭山もラースに会って支援を決意し、新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻にラースをかくまってくれるよう頼みます。
日本政府は一ヶ月ほどで国外退去命令を撤回。
一方でイギリス政府はそこから三年ほどラースの追求を続けました。
その間、ラースは日本中を転々としていたといい、引っ越しは17回にも及んだとか!?
その中で、連絡等に骨を折ってくれた相馬夫妻の娘・俊子と良い仲になり、イギリスからの追手が止んだ後、日本で結婚。
ラースは日本に帰化し、一男一女に恵まれています。
しかし幸せは長くは続かず、俊子は結婚から二年で亡くなってしまいました。
新宿中村屋のインドカレーはラースの味だと!?
日本人の妻に先立たれて意気消沈したでしょうが、ラースは相馬家とのつきあいは続けております。
中村屋が1927年に喫茶部を作る際、インドカレーの作り方を伝えたのがラースなのです。
現在も
「新宿中村屋伝統のインドカリー」
「中村屋純印度式カリー」
として中村屋系列の看板メニューになっていますね。
日本でスタンダードなカレーはイギリスで改変されたものをさらにアレンジしているので、本場インド出身のラースからすると「全然違う(´・ω・`)」という感じだったそうです。
今でもよくいわれますね。
それでもインドのカレーは膨大な種類があるため、日本のカレーを見て「ウチの地元のカレーと違う」と感じるインド人はまだまだ多いそうですが。
ぜひ、これからもたくさん伝えてほしいものです。
こうして日本にも馴染みつつ、ラースは同じように日本へ亡命してきていた運動家たちと連携して、国外から祖国独立に動いていきます。
日英同盟が破棄され、太平洋戦争が始まってからは、日本人の中にも「インド独立を助けよう」という気持ちが広がっていたようで、日本政府もこうした感情を利用。
マレーシアやシンガポールの攻略後、イギリス軍の中にいたインド兵の中から志願者を募って「インド国民軍」を作り、インド方面のイギリス軍と戦う際に共闘しようと持ちかけました。
しかし、インド独立を目指す人の中にも親英派はおり、「日本の傀儡にされるのはごめんだ」と考えたこともあって、理想的な協力状態は難しいかにみえます。
また、インド国民軍ができた後、もう一人のインド独立運動家であるスバス・チャンドラ・ボースとともにシンガポールで自由インド仮政府を作りましたが、この頃からラースは病気がちになっており、インド国民軍の指揮を執ることは難しくなっていました。
そこでスバスに直接の指揮を託し、協力し合うことでインド独立を目指すことになります。
インパール作戦に参加したインド国民軍6,000人のうち8割が……
日本軍のインド方面攻略作戦(インパール作戦)は補給線・制空権・地勢・気候を軽視しすぎて大失敗に終わりました。
あまりにも悲惨かつ長いので、ここでは詳述しません。
もし記録や写真を調べたいという方は、覚悟を決めてからお願いします。
第二次世界大戦あたりから、ネット上でも見られる戦場の写真が飛躍的に増えますので……。
ラースが亡くなったのは、インパール作戦が終わった1944年7月から約半年後のことでした。
この頃になると例の大本営発表は日常茶飯事でしたが、”陸戦における陸軍の発表”はおおむね事実を伝える傾向があったため、ラースを含め、当時の国民がインパール作戦の惨状を聞かされた可能性は否定できません。
インパール作戦に参加したインド国民軍は6000人。
その8割が戦死もしくは戦病死しています。ラースがショックを受けないわけがありません。
しかし、インド国民軍の敢闘はインドの人々を奮い立たせました。
戦後にイギリスがインド国民軍の生き残りを反逆者として裁こうとした際、「インド国民軍は愛国者である」として釈放を要求したことがきっかけで、1947年のインド独立へと流れていくのです。
最終的には良い方向に動いたものの、それまでの犠牲の多さを考えると、手放しで「良かった」とはいえませんね……。
一度植民地になってしまった地域は、だいたい似たような道をたどっていますが。
長月 七紀・記
【参考】
ラース・ビハーリー・ボース/Wikipedia
インド国民軍/Wikipedia
インパール作戦/Wikipedia