残念ながら、宗教がらみの話は争いと直結してしまいがち。
本日はよくも悪くも話題になりやすいあの宗教の、日本人にとってわかりやすそうな部分について簡単に見てみたいと思います。
622年(推古天皇三十年)7月16日は、ムスリム国で使われている「ヒジュラ暦」の1月1日になった日です。
日本では聖徳太子が亡くなった年だったりします。
こういう一致って面白いですよね。
【TOP画像】預言者生誕祭/photo by Minhajian Wikipediaより引用
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【ムハンマドが天の啓示を受けてからヒジュラまで】
「ヒジュラ」は元々「移住」という意味。
この日ムハンマドがメッカを出てメディナへ移住したことからきています。
てなわけでムハンマドの生涯を超略してみましょう。
【ムハンマドが天の啓示を受けてからヒジュラまで】
ムハンマドが神の使いから啓示を受ける
↓
メッカでその内容を広め始める
↓
当時広く信仰されていた多神教の信徒から追い出される
↓
メディナで争いに疲れていた二つの支族から「俺たち疲れたので間に入ってまとめてください」と頼まれる
↓
ムハンマド、メッカを出てメディナへ向かう
そしてメディナで争いを収めたムハンマドは、当時、支族同士での争いが絶えなかったアラビア半島を、宗教的な結びつきで収めようとしていきます。
こういった経緯があるので、メディナに向かったこの日を記念すべき日として、一年の始まりしたのです。
純粋太陰暦=月の動きだけを基準とし、閏月を儲けない暦なので、季節とはズレていってしまうのですが、アラビア半島だとそもそも四季がないですしね。
農業や他国との付き合いなどには向きません。
それを補うためにグレゴリオ暦(一般的に現在使われている“西暦”)や、ヒジュラ太陽暦(イラン暦とも・ヒジュラ暦元年から始まる太陽暦)を併用している地域もあります。
【ヒジュラ暦の一年】
では、ヒジュラ暦の一年とともにイスラム教の主要行事も見てみましょう。
たぶん日本人にとって、他宗教に一番興味を持てるポイントってお祭りその他の行事じゃないかなと思います。
リオのカーニバルとか。
【ヒジュラ暦の一年】
第1月 - ムハッラム (戦いを禁ずる月)
第2月 - サファル (戦いで虚ろな月)
第3月 - ラビー・ウル・アッワル (春の月)
第4月 - ラビー・ウッサーニ (春の月)
第5月 - ジュマダル・ウッラー (寒い月)
第6月 - ジュマダッサーニ (寒い月)
第7月 - ラジャブ (神聖な月)
第8月 - シャバーン (予言者の月・離散の月)
第9月 - ラマダーン (断食の月・暑い月)
第10月 - シャッワール (尾の月)
第11月 - ズルカーダ (安住の月)
第12月 - ズルヒッジャ (巡礼の月)
(引用元:こよみのページ様)
スンナ派とシーア派で扱いが違うものについては、順次書いていきますね。
この二つの派は、ムハンマド亡き後の後継者についての認識や、それに伴う諸々の習慣の違いによって分かれています。
が、ここでその点まで書くと数万字単位になってしまうと思われますので、とりあえず「考え方が違う派が二つあるんだ」くらいの認識でいいかと。
【イスラム教の行事】
・第1月10日 アーシューラー(フサイン殉教祭)
スンナ派では、ムスリムが自主的に潔斎をする日です。
シーア派では、ムハンマドの孫・フサインがウマイヤ朝(661年~750年に存在していた最初のイスラム国家)との戦いで戦死したことにちなみ、タアズィーヤと呼ばれる追悼行事を行います。
フサインが亡くなったときの様子を再現する劇や詩の朗読がされ、棺を模した神輿を担ぐ……までは何となくパッと見でも理解できそうですが、フサインの死を大声で喚いたり、鎖で自らの身体を鞭打つなど、なかなかエキセントリックな哀悼の仕方もあるようです。
何も知らずに旅行先で見かけたら「!!?」としか反応できなさそうですね。
殉教者の追悼行事ということで皆テンションが上ってしまい、治安がヤバい感じになることもあるため、当局としてはあまり好きな行事ではないんだとか。
(※婉曲表現を用いています)
・第3月12日、または17日 マウリド・アン=ナビー(ムハンマド生誕祭)
スンナ派は12日を、シーア派は17日をムハンマド生誕の日として祝います。
「間を取って14日の夜」とかにしないあたりがこだわりというかなんというか。こういうの宗派間の対談で決めたりしないんですかね。
シーア派の国・ファーティマ朝エジプト(909年 - 1171年)で宮廷の祭礼として始まったもので、その後スンナ派を復興したアイユーブ朝の時代(1169年 - 1250年)に、王様から庶民までが参加する大きなお祭りになりました。
モスク前に市場・屋台・芝居小屋が立ち、砂糖菓子でできた花嫁や馬、ラクダの人形が贈答されたり、預言者を称える詩の朗読などが行われる。
生誕祭の前日から当日の夜にかけてはそれぞれのスーフィー教団が教団員で大行列を組み、ムハンマドとアッラーフを称えながら行進し、祭りが終わると人々は飾られていた砂糖菓子の人形を食べる。
コーランやハディース(ムハンマドの言行録)を発祥としない祭りのため、快く思っていないムスリムもいるそうですが。
・第9月1日から ラマダーン(断食月)
たぶんイスラム教で一番有名な行事なので、ご存じの方も多いでしょう。
ラマダーン自体は月の名であって断食という意味ではないのですが、まるまる一ヶ月やるのでほぼ同じ意味で使われている感がありますね。
624年に、マッカの軍を返り討ちにできたことを神の恩寵と捉え、記念したことに始まる……そうです。
ラマダーン中には世界中のイスラム教徒が同じ試練を共有するため、最も連帯感が強まる行事でもあります。
厳しい習慣ということには違いないのですが、月一のイベント中や妊娠中の女性などはしなくていいことになっていて、別の日にやり直すこともできます。
また、ムスリムでも旅行中はしなくてよかったり、高齢者や乳幼児は免除されたりと、大規模なぶん(?)柔軟性も高いようです。
「断食」という言葉のインパクトが強いですが、あくまで食事を取らないのは夜明けから日没までで、日が沈んだらガッツリ食べていいことになっています。
でないと命が危ないですしね。
・第10月1日から イード・アル=フィトル(断食月明けの祭)
断食の無事終了を祝って、3日間宴を行います。
……断食期間中も夜は割とどんちゃん騒ぎのはずなんですが、よくそんなに祝えるものです。
他人事ながら、ムスリムの方々のお財布事情が心配になります。
この期間には、多くの人々が新しい服を着て街に繰り出すそうで。どこの国・宗教でも、お祝いごとはまず服装から入るものなんですかね。
・第12月8日から ハッジ(大巡礼)
全てのムスリムは人生で一度は必ずメッカに行かなくてはいけないことになっていて、特にこの月の巡礼は特別扱いになっています。
他の月の場合はウムラ(小巡礼)と呼ばれます。
ただし、信仰告白(シャハーダ・ムスリムになること)、礼拝(サラー)、喜捨(ザカート)、断食(サウム)の4つと違い、ハッジは体力や財力のある者だけが行えばいいことになっています。
お財布事情や健康上の問題があるのに、無理する必要はないということですね。
また、「ムタッウィフ」というハッジのガイドを務める業者がいるそうで。
メッカへの案内や買い物、渡航書類の保管から、交通・宿泊の手配、儀式のセッティング、はたまた妊婦がいた場合には産気づいたら病院に運ぶ、巡礼者の好みに合う食事の調達もするなど、至れり尽くせりな万能業者です。
ハッジは「何日めに何をするか」が決まっているので、滞りなく巡礼を終わらせられるようにするためだと思われます。
……ハッジにお金が要るのって、ムタッウィフがいるからなんじゃ……ゲフンゲフン。
・第12月10日から イード・アル=アドハー(犠牲祭)
ハッジの最終日である12月10日から4日間にわたって行なわれる、一年の最後のお祭りです。
ハッジに参加していないムスリムも家畜を1匹生贄として捧げ、大巡礼の無事終了を祝います。
犠牲に捧げられた後の家畜は、より貧しい人に分け与えられるべきとされ、余裕のある人は手を付けてはならないのだとか。
ざっくりまとめると、年の始まりからイード・アル=フィトルまではそれぞれの地元で、一年を締めくくるハッジとイード・アル=アドハーはメッカを中心として行われるという感じでしょうか。
日本の感覚に置き換えるとすれば、「冠婚葬祭は地元の神社やお寺で行い、初詣は有名なところへ行く」とかでしょうか。……大分無理がありますね。
暦の都合上、真夏(しかも大多数が高温地域)にこれらの行事をやることも少なくないわけで、個人的にはその一点だけでムスリムの人々はスゴイなあと思います。
これも厳しい環境ゆえの団結力が重んじられるからなんですかね。
何はともあれ、よく知らないのにバッシングをするよりは、多少なりとも理解していきたいものです。
上記の通り、イスラム教のはじまりは「ムハンマドが争いの調停をした」ことも大きく関わっているわけですから、自ら争いを起こすのも本当はおかしいはずですし。
長月 七紀・記
【参考】
『イスラームとは何か〜その宗教・社会・文化 (講談社現代新書)』(→amazon link)
ヒジュラ暦/Wikipedia
アーシューラー/Wikipedia
フサイン・イブン・アリー_(イマーム)/Wikipedia
預言者生誕祭/Wikipedia
ラマダーン/Wikipedia
イド・アル=フィトル/Wikipedia
ハッジ/Wikipedia
イード・アル=アドハー/Wikipedia