崇禎帝/wikipediaより引用

中国

崇禎帝~中国・明王朝の皇帝が自滅しちゃったのは疑心暗鬼から?

「用心深い」ことは、多くの場合好意的に評価されます。

が、あまりに行き過ぎれば「疑心暗鬼」という弊害をもたらすもので、今回、注目するのはそれが高じて自滅してしまった君主。

1644年(日本の正保元年)3月19日、中国明王朝の皇帝・崇禎帝(すうていてい)が自害しました。

 


中国の「秀吉」明の初代皇帝・朱元璋

本コーナーでは滅多に触れない中国史。
まずは同王朝について、カンタンな説明から始めましょうかね。

明は1368年、朱元璋(しゅげんしょう)という人が建てた王朝です。
朱元璋は元々かなり身分が低い、その日の食べ物にも困るような暮らしをしていた経歴の皇帝でした。

朱元璋/wikipediaより引用

その反動で理想が高かったのか。
国を万全なものとするために対外戦争や内政など、全ての方面に八面六臂の大活躍をしました。

しかし晩年の朱元璋は、
「麒麟も老いては駑馬に劣る」
という言葉そのままの暴挙を働いてしまいます。後継者が心配だからというだけで、有能な家臣を次々と殺してしまったのです。

「彼らを放置しておくと、いずれクーデターを起こして息子や孫の地位を脅かす”かもしれない”」という理由でした。

それでも民衆にとっては農業や税制の改革をやってくれたので、良い皇帝として称えられています。

民衆からの人気や晩年の耄碌ぶりなどは豊臣秀吉とよく似ていますね。
政権の末路もある意味似通っているかもしれません。

 


初代皇帝の悪いところばかり真似

本日の主役・崇禎帝は、朱元璋の悪いところの再現ばかりしてしまいました。

朱元璋が万全を期したとはいえ、さすが250年も経つとあちこちで問題が勃発。
北方からは異民族(女真族・後々清を建てた民族)の侵略、南方では反乱が起きて滅亡の兆しが見えていました。

こうした諸問題に対し、崇禎帝の先代で兄でもある天啓帝がロクに対策をせず、私腹を肥やしたため、こうした大問題を2つ同時に対処せねばならなかったのです。

「ニーチャン勘弁してくれよ」と激しく思ったでしょうね。
苦労のせいか、肖像画だと崇禎帝のほうがヤバイを目している気もします。

天啓帝/wikipediaより引用

彼は即位すると、直ちに兄の下でいろいろやらかした魏忠賢(ぎちゅうけん)という宦官(アレを切り取る代わりに出世の道が開けた中国諸王朝の役人)を始末。
新たに徐光啓(じょ こうけい)という人物を重用して明を立て直すべく頑張ります。

本人の性格も真面目で「最後の王様」にありがちな酒色に溺れるというようなこともナシ。
自ら倹約をして財布の紐を締めるなど、良い皇帝になれそうな人物でした。

しかし……。

【参考記事】宦官

 


真面目すぎて人間不信、名将も処刑

崇禎帝には、そうした長所を全て否定してしまうほどのデカ過ぎる欠点があったのです。

猜疑心の強さ。
要は人間不信ということでした。

朱元璋のように子孫のことを考えてというより
「誰が裏切るかわからないから、とりあえずエラい奴は裏切る前に殺しておこう」
というような状態で奸臣忠臣問わず、手当たり次第に処刑してしまったのです。

中でも「袁崇煥は異民族と通じている」という噂を信じて、この北方民族からの侵略に一人で対応していた名将を殺してしまったのは最悪でした。

噂というのは、後に清王朝の二代目皇帝になるホンタイジの計略で、崇禎帝は見事にハメられてしまったのです。

ホンタイジ/wikipediaより引用

民心もどんどん離れていき、南部の反乱軍へ加わるものが続出する有様。

当然鎮圧のための軍費もかさみますが、崇禎帝はこれを民への増税という一番アカン手段で対応しようとします。
これが皇帝への不信に拍車をかけ、反乱軍は潤ってゆくという悪循環を生み出しました。

 

最後に残った部下は一人

崇禎帝は既に客観的な視点で物事を見ることができなくなっておりました。

そしてその改善もできないままに、即位17年後の春、北京を反乱軍に包囲され自害に至ります。
最後に助けを求めたとき、崇禎帝のもとへ駆けつけたのは王承恩という宦官だけだったといいます。

彼は崇禎帝の息子達を逃がしてくれたのです。
兄の時代に専横を働いた宦官を殺して安定を図った崇禎帝が、死に際でアテにできたのが宦官一人というのは何とも皮肉なものです。

王承恩は宦官には珍しく徹頭徹尾、忠誠を貫いた人物で、崇禎帝が縊死した後その隣で自らも首を吊って殉死し、お墓も崇禎帝のすぐ側に作られたとか。

その後は朱元璋の別の子孫が明の亡命政権(南明)を作って何とかしようと頑張った時期もあったのですが、北方民族の建てた清王朝に敗れ、血筋も国も跡形もなく消えてしまいました。

 


「人を信じること」や「人を見る目」

崇禎帝にとっては仇である反乱軍の頭・李自成を討ったのが女真族というのもまた何ともいえないところです。

女真族が「明の正当な後継者である」という形を調えたかっただけなんですけどね。
体裁って本意がバレるとヤな感じですよね。

こうしてみると、王様に一番必要なのは「人を信じること」や「人を見る目」なのかもしれません。

現代のリーダー論にも通じそうな話です。

有能の代名詞みたいにいわれている諸葛亮(孔明)だって、「馬謖を重用するべきではない」と言ったのを劉備が聞かずに後で痛い目を見ていますからね。

能力と人望・観察眼は兼ね備えにくいということでしょうか。

長月 七紀・記

【参考】
崇禎帝/wikipedia


 



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