ジョン・バイロン/wikipediaより引用

イギリス

「事実は小説よりも奇なり」の名言を放った 英国のイケメンチャラ貴族バイロン

この世には多くの名言や格言、ことわざがありますね。知らなくても生きてはいけますが、知っているといずれ心の支えや自説の説得力を増すものにもなります。

が、そうした言葉を残した人が、必ずしも人格も優れていたかというと、そうとも言い切れなかったりして……。

本日はそんな一例と思われる、とある詩人のお話です。

1824年4月19日は、詩人として有名なジョージ・ゴードン・バイロンが亡くなった日です。

肖像画からもわかる通り大変な美男子ですが、容姿の良さに反比例するかのように、素行は「ノーコメント」な感じでした。

 


天然痘の予防接種を試みた

バイロンは1788年、イギリス貴族の家に生まれました。

難産だったらしく、そのせいで右足の足首が内側にねじれてしまい、彼の生涯の悩みとなりました。

後々ダーダネルス海峡(トルコの西、地中海に面する海峡)を泳いで渡ったりしていますし、かなり広い範囲に旅行をしているので、さほど重いものではなかったと思われます。

どちらかというと見た目への影響が大きく、本人は気にしていたようです。

母キャサリンはジョージが幼い頃、この足について当時高名になっていた医師ジョン・ハンターに診せたことがありました。

ジョンは「矯正用のブーツを履かせておけば直に治るだろう」と診断したのですが、このときのキャサリンにはそのお金がなかったため、治すことはできませんでした。

11歳になった頃、ジョージはジョンの甥マシュー・ベイリーに足を診せに行きましたが、彼はジョンと同じ診断をし、

「幼いうちに専用のブーツを履いておけば治ったのに」

と悔しがったそうです。

ジョージも悔しかったでしょうね……。

ちなみに、ジョンはジョージの腕に天然痘の予防接種を試みたことがあります。

この件については記録が乏しいのだですが、おそらくジョージの記憶がないような幼い頃のことでしょう。

天然痘患者から採取した膿をジョージの腕に刺して接種させたそうだが、この方法は当時まだ安全と言いきれないものでした。

幸い、ジョージの免疫力が強かったらしく、発症には至らなかったのですが。

この件についてジョージが誰かから聞いていたかどうかはわかりませんけれども、隠れた財産といえそうです。

 


15歳の夏休み メアリーと恋に落ち

父親のジョージは色々とだらしない人で、借金に追われろくに姿を表さず、キャサリンは幼いジョージを連れてスコットランドのアバディーンに引っ越すことになりました。

父はいつの間にやらフランスに行ってしまい、再会することなく死別。

その分?母はジョージを溺愛したようなのですが、怒りっぽい面もあり、親子仲は良好とはいえなかったと思われます。

幼い頃からこういった環境で育っては、長じた後のジョージの嗜好がちょっとアレな方向になるのも仕方がなかったのかもしれません。

こうしてなかなか苦労の多い環境に育ったジョージ。10歳の時、突如バイロン家の当主をやらされることになりました。

当時のバイロン家当主はジョージの大伯父だったのですが、他に跡継ぎがいなかったため、ジョージが爵位を継ぐことになってしまったのです。

彼はいきなり背負わされた重責をさぞ煩わしく感じたことでしょう。

13歳でハロー校に入学し、15歳の夏休みにはメアリー・チョワースという女性と恋に落ちました。

最終的にメアリーは別の人と結婚したものの、相手が乱暴な人だったためあまり幸せではなかったらしく、ジョージを恋しがったそうです。

とはいえ、後々のジョージの言動を考えると、彼と結婚してもあまり万々歳とはいえなさそうですけれども。

同時期に異母姉のオーガスタと出会い、なんだかアヤシイ感じにもなっていきました。

血縁があるとはいえ、思春期まで会ったことがなかったのですから、他人のように思っていても不思議ではないですよね。恋愛は他人とするものですし。

17歳でケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学し、ジョージはその美貌故に交友関係も広がりました。

詩作にも凝り始め、1807年、19歳のときに初めての詩集「無為の時」を出版。

これはあまり評判が良くなく、ジョージは憤慨して「イングランドの詩人とスコットランドの批評家」で文壇の人々を風刺しました。

その風刺が好評となり、文壇で認められるという皮肉な結果になっています。本人の生い立ちや性格だけでなく、周囲からの評価も一筋縄ではいってないですね。

 


議員をサボって大陸へ

1809年には貴族の義務として上院議員にもなっているのですけれども、卒業を待たずにケンブリッジを去り、大陸へ旅立ちました。

貴族院議員は選挙で選ばれるわけではないので、審議への意欲が薄い者が多く、ジョージもその一人だったのです。

同年7月から2年間、親友と召使たちを連れて南ヨーロッパ各地を旅しています。

この間オスマン帝国を訪れ、”ダーダネルス海峡のヨーロッパ側からアジア側へ泳いで渡る”という珍妙な行動にも出ました。

これはギリシア神話のレアンドロスという人にならったものとされます。

レアンドロスはダーダネルス海峡のヨーロッパ側に住む女性神官ヘロに恋しており、彼女に会うため毎晩海峡を渡っていました。

ヘロは恋人のために明かりを灯していたのですが、ある冬の日に嵐でその明かりがきえてしまい、目印を見失ったレアンドロスは溺れ死んでしまいます。

ヘロはレアンドロスの遺体を見て嘆き悲しみ、身を投げた……という、悲恋の話です。

ジョージはこの物語に感銘を受けて泳いだらしいのですが、「自分も溺れ死ぬかもしれない」とかは思わなかったんですかね……?

この件について書いた詩では

「レアンドロスは愛の為に泳いだというが、私は名誉のためにそうした」

としているのですけれども、どういうことなのかサッパリわかりません。

この旅で訪れた他の場所でも詩を作り、帰国後の1812年に物語詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』としてまとめて発表しました。

「チャイルド・ハロルドの遍歴」は初版500部が3日で売り切れ、ジョージは一気に有名人になります。

文壇の人々とも交際が始まり、ずっと休んでいた議会にも出席。

自由主義を支持する弁論を行い、ホイッグ党のホープとして注目されました。

一方、ロンドンの社交界で貴族婦人たちとのロマンスに興じ始めるのもこの頃です。

世間や女性たちの注目を集めたことによって創作意欲が湧いたのか、詩を執筆スピードが激増し、1813年~1816年にかけて6冊もの詩集を発表しました。

どれも好評を博したそうで、さぞやりがいを感じたことでしょう。

 

結婚と不倫

そのまま真面目な方向に戻ればよかったのですが、放埒な生活は続きました。

1815年1月にアナベラ・ミルバンクという女性と結婚したものの、彼女は真面目すぎてジョージへの干渉がきつく、うまくいっていません。

二人の間に娘が授かったものの、うまくいかなかったようです。ちなみにこの娘は後々数学者となり、今日では「世界初のコンピュータープログラマー」ともされるオーガスタ・エイダです。

また、彼のロマンス相手には既婚者や異母姉オーガスタなど、インモラルな相手が多く含まれていたため、次第にジョージを批難する声が高まりました。

1816年にアナベラと離婚すると、彼はイギリスを去り、以降帰国せずに生涯を終えています。

行く宛のないジョージはベルギーからライン川に沿って旅をし、スイス・ジュネーヴで運命の出会いをしました。

詩人のシェリー夫妻と、その夫人の妹クレア・クレアモントです。

ジョージはクレアと深い仲になり、彼女は1817年にイギリスで娘を産みました。

後日この娘はジョージのもとに送られて修道院に入ったが、5歳で亡くなってしまったといいます。

乳幼児の死亡率が高い時代とはいえ、流れが不憫すぎて余計哀れに思えますね……。

 


女好きが過ぎる

1816年の暮れにヴェネツィアへ移ると、ジョージは女癖の悪さに拍車をかけます。

今度はパン屋の妻など、庶民層が主な相手だったようです。

なんで人妻にすぐ近づくんですかね……。

これがまた詩情に変化を与え、これまでと異なる詩を次々に生み出していきました。

イギリスの文壇からは批判も受けましたが、ゲーテなどが応援し、ジョージは作詩をやめませんでした。

1819年4月になると、ジョージは19歳の貴婦人テレサ・ギッチオリに熱を上げ始めます。

ジョージはピサに移り、テレサやシェリー夫妻と生活しながら、史実や古典をもとにした詩劇を書いていました。

ジョージはシェリーとともに文芸誌を発行したこともありましたが、シェリーが1822年に溺死したため短期間に終わっています。

イタリアではカルボナリ党に接触したこともあったようです。

 

恋愛が豊富だったからこそ名言も数多い!?

そして1824年、彼の情熱は別の方向に燃え上がります。ギリシャ独立戦争へ参加することを決めたのです。

当時ギリシャはオスマン帝国の一部になっていたのですが、この頃のオスマン帝国は「瀕死の病人」になり始めており、独立の気運が高まっていました。

ジョージは一念発起し、ギリシャ・メソロンギの地にやって来たのですが、そこで熱病に罹り、あっけなく亡くなってしまいました。

当時36歳。まだまだ著作や活動もできたでしょうに、これではギリシャの人々も「お前何しに来たの(´・ω・`)」と言いたくなったに違いありません。

直接の死因は瀉血(※1)だったそうなので、処置をした医師の腕前か、衛生状態がまずかったのでしょうね。

※1 しゃけつ/血をある程度抜くことで病気を治そうという治療法。中世~近世のヨーロッパで流行した。

万能な治療法と思われていたが、現在では実際に効くのはごく一部の病気のみということがわかっている。

そんなアレな恋愛遍歴と残念な最期だったバイロンがなぜ詩人として有名なのかというと、「名言が多いから」という面もあります。

その一部をご紹介しましょう。例によって意訳が含まれますのでご注意ください。

・女性は初恋のときは恋人に恋をするが、次からは恋そのものに恋するようになる

・友情は愛になりうるが、その逆はありえない

・事実は小説より奇なり

・知恵は悲しみに繋がる。より多くのことを知っている者は、より深く嘆かねばならない

・逆境は真理に至る最初の一歩である

・過ぎ去った時代は全て「良かった」と言われるようになる

皆さんはどの発言に共感したでしょうか。

名言に限らず、言葉の受け取り方はケースバイケースですので、どれがいいとか悪いとかいうこともないですけれど……彼の人生を知ると、説得力が半減するようなゲフンゴホン。

長月 七紀・記

【参考】
バイロン・阿部知二『バイロン詩集 (新潮文庫)』(→amazon
英語名言研究会・田中安行『英語名言研究会・田中安行『カラー版 CD付 音読したい英語名言300選』(→amazon
デジタル版 集英社世界文学大事典
日本大百科全書(ニッポニカ)

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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