伝統とは、基本的には守ったほうがいいものですよね。
しかし、中国でかつて行われていた「纏足」のように、当時としてはきちんとした理由があったとしても「いやいや、いやいや、ソレはまずいっしょ!」と思うような伝統もあります。
今回はそうしたマズイ伝統によって、一つの国の歴史が変わってしまった……という、ウソのような本当のお話です。
841年(日本では平安時代・承和八年)6月25日は、フランク王国の命運を分けた「フォントノワの戦い」が起きた日です。
「そもそも”フランク王国”ってなんぞ?」というツッコミが飛んできそうなので、この国の成り立ちから話を始めましょうか。
ローマ帝国の後にフランス・ドイツ地域を制圧
フランク王国とは、5世紀末から10世紀頃まで、現在のフランスやドイツなどの位置にあった国です。
民族としてはまんま「フランク人」でした。
大移動でおなじみのゲルマン民族に含まれる一部族です。
フランク人はローマ帝国の文化を取り入れながら発展し、現在のドイツとフランス周辺を勢力下に置いたことがフランク王国の始まりだといわれています。
そしてローマ帝国が力を落としはじめると、フランク王国は自分たちこそがヨーロッパの主となるべく、ゲルマン民族の他の部族を武力で制圧して大きくなっていきます。
フランク王国の最初の王朝だったメロヴィング朝は、クローヴィスという王様のもとで6世紀にフランス全土の制圧に成功しました。
しかし、彼が「ワシが死んだらお前たちは仲良く国を分割してやっていきなさい」と言い遺したため、四人の息子たちが相争うことになります。
「フランク人は分割相続が原則だったから」らしいのですけれども……「土地を分けるとロクなことにならない」というのは世界史あるあるですよね。
そして、フランク王国は4つの国の連合体のような形になります。一時的に再統一した王もいたのですが、ほとんどの時代において王様同士だけでなく、家臣の中の実力者が台頭して争いに発展することもあったため、長くは続きませんでした。
台頭するカロリング家はローマ教皇を使い……
その中で、現在のフランス北東部を支配していた”アウストラシア分王国”という(舌を噛みそうな名前の)国で、家臣・カロリング家が台頭してきます。
当時はまだメロヴィング家の血筋も残っていたため、世間的には「王様の地位は一応メロヴィング家にしといたほうがいいよね」とみなされていました。
形骸化しているからこそ、本当には滅びない……というのも、歴史あるあるですね。
しかし、力があるからにはトップになりたいのが人間というものです。
カロリング家は、ローマ教皇に接近して権威を手に入れようと考えました。
この頃のローマ教皇は東ローマ帝国と敵対しつつあったため、武力的・政治的な保護者を求めていたのです。……それこそ神の御力なりお恵みなりを信じるべきところのような気がしますが、そんなツッコミをする人は当時いなかったんでしょうね。
こうして、ローマ教皇が「カロリング家のピピン3世がフランク国王!」と鶴の一声を飛ばします。
ピピン3世はお礼として北イタリアの土地をローマ教皇に献上し、晴れて(?)フランク王国の主となりました。
さらに、ピピン3世の次の王・カール大帝=シャルルマーニュが版図を最大にし、改めてローマ教皇から「カールを西ローマ帝国の後継者とする」と認められたため、フランク王国は前途洋々に見えました。
やっぱり「慣習だから」と分割相続しちゃったら
しかし、カール大帝もまた「慣習だから」という理由で分割相続を言い遺して火種を蒔きます。
カール大帝が亡くなったときは息子が一人しか生き残っていなかったため、すぐには問題にならなかったのですが……。
その息子である敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)もまた、三人の息子に分割相続をさせようとしてしまいます。
しかも、そのための法律を作った後にもう一人息子が生まれて「コイツも俺の息子だから、領地を分けてやらないとな」と言い出して、他の三人に猛反発されました。
マズイ前例があるのに、なぜ同じ過ちを繰り返すのかサッパリわかりませんが、当時の王様はご先祖様の話を参考にしようとか考えなかったんですかね。
ルートヴィヒが亡くなると、長男のロタール1世が皇帝となりました。
これに次男と三男が結託して反抗し、841年6月25日に起きたのが「フォントノワの戦い」です。
幸か不幸か、戦闘そのものは泥沼の長期戦を回避しております。
しかし双方合わせて10万もの軍勢が戦い、戦死者は4万に!
全体の約半分が戦死するってムチャクチャな死亡率のような気もしますが、おそらくは戦病死・戦傷死も含まれているでしょう。
この戦いから二年後にヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東・中・西の3つに分割されました。
最初から話し合いで分割することに決めておけば、4万人も死ななくて済んだかと思うと……それができないのが古代の残虐さというか。
フランク王国の問題は先祖代々の慣習を守る律儀さよりも、「他者同士に殺し合いをさせて平気な無神経さ」が強かったことでしょう。
どこの国の首脳にもいえることですけれども。
結局、元には戻れず滅亡へ
3つに分かれたフランク王国は、そのまま本格的に統一されることもなく、別々の道を歩みました。
西フランク王国はフランス王国へ、東フランク王国は神聖ローマ帝国を経てドイツへ。
間に挟まれた中フランク王国は、間もなく東西フランク王国に分割・吸収されました。3つに分けた意味は一体……とツッコむのは野暮ですかね。
いずれにせよ、10世紀のうちに3つに分かれたカロリング朝の国王は途絶えてしまっていますが、人口減らしまくった上に自分の家が滅びるとか、これなんてプレイ?
特にフランスとドイツはその後何度も争うだけに、フランク王国が分裂していなかったら……と思ってしまいます。
どこかのタイミングで、温暖かつ外海に出やすいフランス側が冷涼なドイツ側を養う形になり、不公平感や閉塞感から分裂したかもしれませんが。
まぁ、そうなると他の国も手と口を突っ込んできたでしょうし、結局、歴史にIFはなく、人間の業も変わらないってことでしょうか。
なんとも世知辛い話です。
長月 七紀・記
【参考】
フランク王国/Wikipedia
フォントノワの戦い/Wikipedia
ヴェルダン条約/Wikipedia