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世界初の国際的女優サラ・ベルナール 右足切断後も芝居を続けたその先に

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1844年10月22日は、女優サラ・ベルナールが誕生したとされる日です。

美貌はもちろん、世界初の国際スターであり、実力や名声も20世紀随一の女性。
当コーナーでは、画家のアルフォンス・ミュシャがメジャーになったときのお話で、少しだけご紹介したことがありますね。

愛国心と芸術に生きた画家アルフォンス・ミュシャの生涯

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今回は、サラ本人の生涯を追いかけていきましょう。

 

母に捨てられたサラ・ベルナール

サラが生まれたときのことは、実はあまりよくわかっていません。

ハッキリしているのは、彼女の母親がオランダ出身のユダヤ人で、帽子の売り子をしていた人だということくらいです。
生活が苦しいため、パリに来て高級娼婦として身を立てていたそうです。

そのため、サラの父親や出生地はわかっておらず、本人も積極的に語ろうとはしませんでした。

誕生日についても、1844年10月22日以外の説が多々あります。

まあ、王侯貴族でもなければこういった点は大した問題ではありませんね。
特に、芸術の世界で生きている人の場合は。

サラ・ベルナール(ナダール撮影、1865年)/wikipediaより引用

その後、小さいうちに母に見捨てられてしまったサラは、フランス北西部のカンペルレという町の叔母に育てられます。

運良く、叔母の愛人だったシャルル・ド・モルニー(ナポレオン3世の異父弟)が支援をしてくれたおかげで、学校に入ることができました。

その学校で初めて演劇を経験したそうです。
初めての役は天使だったとか。小さい頃もさぞ美しかったんでしょうね。

 

普仏戦争時には劇場を野戦病院にして傷病兵を手当

13歳のときユダヤ教からキリスト教に改宗し、一時は修道院に入ろうと思っていたこともあったそうです。
が、演劇への興味も持っており、翌年コンセルヴァトワール(フランス国立音楽演劇学校)の演劇科に合格したことで、本格的にこの世界に入っていくことになります。

コンセルヴァトワールでは、演技のほかにフェンシングなども教わったそうです。
これは後々男役をやるとき役に立ったとか。

現代でも、俳優さんが役作りのために体型を変えたり、専門的な技能を身につけることはありますよね。

1862年になると、サラはコンセルヴァトワールを二番目の成績で卒業して、コメディ・フランセーズ(フランス国立劇団)に入団。
先輩とケンカして平手打ちを食らわせてしまったため、4年で追い出されてしまいます。

そこでオデオン座という別の劇団と契約し、演技を続けていきました。

「失望」:ジュリアス・ルブラン・ステュワートが描いたサラ・ベルナール、1882年/wikipediaより引用

サラのルーツはユダヤやオランダといえますが、この頃までにフランス人として国を愛する気持ちができていたようで、【普仏戦争】が起こったときには劇場を野戦病院にし、多くの傷病兵の手当もしていたといいます。

こんなに綺麗な人に手当してもらえたら、さぞかしテンションも上って回復が早まるでしょうね。
病も傷も気の持ちようという部分がありますし。

 

一度は入団→退団した国立劇団から呼び戻される

1872年には「リュイ・ブラス」という演目での女王役を演じ、作者のヴィクトル・ユゴーから「黄金の声」と賞されました。

これを聞いたコメディ・フランセーズはサラを呼び戻し、一躍、花形女優となっていきます。

「神聖なるサラ」
「劇場の女帝」
「聖なる怪物」

などなど、彼女に二つ名が増えていったのも、このあたりからです。

そしてコメディ・フランセーズを1880年に退職した後は、自分で会社を作り、フランス以外の国でも演劇をするようになっていきます。

イギリスやデンマーク、アメリカ、ロシアなど。
活躍の場は一気に広がり、その合間にエジソンやオスカー・ワイルドなどとも会う機会を得ました。

ワイルドとはプライベートでも親しく付き合い、「サロメ」などの戯曲も発注しております。

ハムレットやペレアスなどの男役も何度もこなすサラに、男性の演技をベースにした脚本を書いた作家もいるほどです。
日本の宝塚歌劇団でも男役の方が一番人気になりますし、元男役の女優さんもファンが多いですよね。

こうして、サラは世界史上初めての「国際的スター」になっていったのです。

 

自宅ではクッションを敷き詰めた棺桶で休んでいた!?

1893年以降は複数の劇場で座長もこなしながら演技を続けました。

彼女の栄光を称える「サラ・ベルナールの日」という祭典がパリで開かれたとき(1896年)には、200台もの二人乗り馬車が移動に使われたといいます。

このときにはサラを称える歌曲も演奏されました。
当人の存命中に個人を称える歌が作られるってスゴイですよね。

もちろん絶賛だけではなく、ときには中傷や悪意も受けていますが、サラにとってはささいなことでした。

1905年のカナダ・ケベック興行では、地元の大司教が「あの女優は官能的過ぎる」と大仰に批難し、観劇に行かないよう住民に呼びかけたため、いつもよりも空席の目立つ上演となったそうです。

そういうものを見たとしても、正しい道に戻れるよう導くのが聖職者だと思うんですがね。
自分が変なこと考え過ぎなんちゃう?(´・ω・`)

サルドゥ(フランス語版)の史劇「テオドラ」でタイトルロールのテオドラ皇后に扮するサラ・ベルナール/wikipediaより引用

しかし、この栄光の裏で、徐々にサラの体は結核に蝕まれていきました。

たまに話題になる
「サラ・ベルナールは、自宅ではクッションを敷き詰めた棺桶で休んでいた」
というのは、この頃のことです。

そこだけ切り取られるとヤバイ感じの人に思えてしまいますけれども、サラなりに死に対する覚悟を決めるための道程だったのでしょう。
キリスト教の考えで行くと、最後の審判の日まではずっと棺桶の中にいなければならないわけですし。

1890年には膝の骨結核を発症し、1915年には右足を切断するほどにまで進行。
結核は肺だけじゃなく、サラのように膝関節で発症することもあれば、他の内臓や神経系やリンパ系で起きることもあるそうです。こわい。

 

生涯現役! その言葉が持つエネルギーとはかけ離れながら……

それでもサラは、座ったままで演技の仕事を続けました。

理由は不明ですが、義足をつけるのはどうしても嫌だったようです。
見た目の問題でしょうかね……。

彼女本来の闊達さは失われておらず、第一次大戦中には椅子持参で前線のフランス兵の慰問をしていたそうです。
また、自ら「ほら、ホロホロ鳥よ!」とネタにすることもありました。

周囲から見ていると痛ましいことですが、サラは女優としての仕事を生涯続けていくのです。
なんせ1923年に73歳で亡くなったときも、映画の撮影期間中でした。

当時はまだ映画というものが広まり始めた頃でしたので、サラは「自分が動いて演技をしているところを、後世に残したい」と思ったのでしょうか。

”生涯現役”というと何となくエネルギーに満ち溢れた人を連想しますけれども、サラの場合はいろいろな事が重なって、何だか切なく思えてきますね。

それがまた、彼女の伝説を美しく見せているのかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
サラ・ベルナール/Wikipedia

 



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