作家

ミステリー作家の元祖エドガー・アラン・ポー 転々としながらミステリーな最期を迎える

 

人間、100パーセント意図した通りに生きるのはなかなか難しいものです。
もちろん、それに向かって努力することはとても大切ですが、右往左往してしまうことも多いですよね。
本日はそんな感じの一生を送った、とある作家のお話です。

1849年(日本では江戸時代・嘉永二年)10月7日は、ミステリー作家のエドガー・アラン・ポーが亡くなった日です。

ミステリー小説の元祖とされる人であり、「モルグ街の殺人」や「黒猫」など有名作品も多いので、その手のものが好きな方にはお馴染みの名前ですよね。
今回は作品の中身ではなく、本人の生涯を見ていきますので、ミステリー小説が苦手な方もご安心ください。

【TOP画像】エドガー・アラン・ポー/wikipediaより引用

 


3歳で両親をなくし、父の友人の元へ養子入り

エドガーは、1809年にボストンで俳優の両親の元に生まれました。血筋としてはスコットランド系だそうです。
両親は巡業で忙しかったため、しばらくは父の実家へ預けられて育ちました。

が、1810年に父が突如失踪。母は妹を妊娠中で収入が途絶えており、さっそく人生に暗雲が立ち込めます。貧困とストレスのためか母は産後の肥立ちも悪く、一度は舞台に復帰したものの、1812年の年末に他界してしまいました。
たった3歳で両親をなくすなんて、ハードモードすぎやしませんかね……。

兄ウィリアムは父の実家、妹ロザリーは父の友人、エドガーは妹とは別の父の友人の元へ、と4人の兄妹は散り散りになります。
エドガーの継父となったジョン・アランは輸入業者で、経済的には成功していましたが、子供に恵まれず養子を探していました。夫人のフランセスも同じスコットランド系の養子を望んでいたため、エドガーを引き取ることに決めたといいます。

この頃アメリカとイギリスは再び戦争(米英戦争)をしていましたが、それが終わるとアラン一家は渡英、事業拡大を試みます。
エドガーはアランの故郷の町・アーヴィンやロンドンなどで学校に通いました。しかし、継母であるフランセスが病気がちになったため、一緒にあちこちへ引越すことに。

5年ほどでアランは「イギリスじゃ儲かりそうにない(´・ω・`)」と諦め、アメリカに戻ります。
エドガーはこの間、語学や詩作に励み、将来への第一歩を踏み出していました。

 


ヴァージニア大学へ入学するもギャンブルで退学

アランはどうも商売が上手いとはいえないほうだったようで、一時は自宅を売らざるをえないほどの失敗をしています。しかし、たまたま転がり込んできた伯父の遺産で再び家を買うことに成功しました。

そのおかげで、エドガーは1826年にヴァージニア大学へ入学することができています。ここでヨーロッパのさまざまな言語や、各国の古典~(当時の)現代文学などを熱心に学びました。
が、私生活では相手の父親の妨害で失恋したり、仕送りが遅れた分のお金を得ようと賭博を始めてのめり込み、借金を重ねたりと荒れるようもなります。
そのため借金を重ねてついには大学を辞めなくてはならなくなり、ボストンでアルバイトをしてお金を稼ぎます。しかしそれでも追いつかず、年齢と名前を偽って陸軍に入りました。

この頃初めて詩集を出していますが、成果はほぼゼロ。自業自得という面はあるにせよ、陰鬱な気分になっていたでしょうね。

軍に入ってからのエドガーは真面目に仕事をこなし、昇進していきました。しかし、このままでいいものか悩んだようで、上官に年齢と本名を明かして早期除隊を希望しています。
上官は、継父アランと相談するようにと諭し、エドガーはその通りにしました。借金のせいでアランとはケンカ別れのような状態になっていたため、一度は無視されてしまいましたが、継母のフランセスが亡くなると、アランの態度が軟化し、話ができたようです。

この間に考えがまとまったようで、エドガーは一度除隊の上で陸軍士官学校に入る道を選びます。しかし運悪く、その年度は既に士官学校が定員になっていたため、翌年まで待つことになりました。

 


「アル・アーラーフ」という詩で世間の注目を集める

入学を待っている間、エドガーは兄のヘンリーが暮らしているボルティモアの父の実家へ厄介になろうと考えます。

が、父の実家は非常に貧しい暮らしぶりだったため、寄宿を諦めてアパートを探しました。
この間、二冊目の詩集を出そうとしながら資金不足で諦めています。
しかし、その後「アル・アーラーフ」という詩が複数の雑誌に掲載され、世間の注目を集めることに成功しました。
そのおかげで出版社の協力を得ることができ、この詩を中心とした詩集を出版します。

その後、希望通り士官学校に入りましたが、ここでの生活はかなり厳しい規律があり、自由に本を読むことすら禁じられているほど。
しかもアランが再婚したこと、別の恋人との間にも子供を作っていたことで、エドガーとの間で喧嘩になり、勘当されてしまいます。この義親子どっちもアレですね。
遺産相続の望みがなくなったエドガーは、士官学校をわざとサボッて、放校処分を受けます。自暴自棄にも程があるやろ(´・ω・`)

士官学校をイヤな形で出た後、ニューヨークの安ホテルに滞在しながら、出版社に作品を持ち込んで三冊目の詩集を出版しました。しかしこのときはあまり好評を得られず、ボルティモアの叔母の家に居候することにします。

短編小説を書き始めたのはこの頃からです。

雑誌にいくつかの作品が掲載され、「壜の中の手記」という作品が懸賞の最優秀作となり、賞金50ドルも獲得。受賞がきっかけで、審査員の一人だったジョン・P・ケネディと親しくなり、他の雑誌へ推薦してもらうことに成功します。
しかし、この頃のエドガーは年の離れた従妹・ヴァージニア(厄介になっていた叔母の娘)へ求婚して、叔母に拒否されたために、ヤケ酒などをあおって荒れており、せっかく得た職を辞めてしまうという暴挙に出ました。

このときは何とか叔母を説得してヴァージニアと結婚し、再就職にも成功するというウルトラCをやってのけています。愛の力ってすげえ。

結婚後は、短編小説や批評を掲載して評判を高め、雑誌の発行部数を7倍にするという手腕を発揮。
収入が増えたおかげで結婚式を挙げることもできましたし、おそらくこの頃が幸せの絶頂だったと思われます。しかし……。

 

雑誌編集者となり、「モルグ街の殺人」も発表

ここでも、お偉いさんと喧嘩して職を辞し、ニューヨークへ移りますが、思ったように転職できず、生活に困るようになります。なぜ懲りないんだ。

しばらく紆余曲折を経て、知り合いのツテで新しい雑誌「グレアムズ・マガジン」の編集者になり、ここで今日でも知られている「モルグ街の殺人」などが掲載されました。

小説以外にも多数の評論を発表し、グレアムズ・マガジンは創刊から二年もしないうちに発行部数3万7000部という快挙を成し遂げます。
なんだかピンとこない数字ですけれども、「2016年現在の日本の文芸誌で、発行部数3万部を超えているものはごく一部」ということからすると、かなりのヒットではないでしょうか。

また、グレアムズ・マガジンの編集者時代にチャールズ・ディケンズと面会したことがあるそうです。「クリスマス・キャロル」や「二都物語」などの作者ですね。
ディケンズはこの頃アメリカへ長期旅行に来ていたので、その中でアメリカの出版社に立ち寄ったものと思われます。

グレアムズ・マガジンの成功で自信を持ったのか、エドガーは「いつか自分の雑誌を創刊すること」を目標に頑張ることを決めます。
しかし、エドガー本人が1842年に結核にかかり、妻ヴァージニアも病気がちになったために仕事を休みがちになり、編集長の職は他の人に奪われてしまいました。

 


妻に先立たれ、かつての恋人と再婚しようとした矢先に……

こうなったらいっそ「家で創作に専念できてラッキー!」とでも考えを切り替える場面ですよね。
いや、エドガーはそんなに器用な人ではありませんでした。
小説で賞金を取ったり、雑誌に作品が掲載されたりはしたものの、生活に余裕が出るほどの収入は得られず、苦しい状況が継続。

1847年には妻ヴァージニアにも先立たれ、ますます生活が荒れていきました。

他の女性と恋愛をしたこともありましたが、禁酒を条件に婚約したにもかかわらず、お酒を飲んだことが相手にバレて破断になっています。
そりゃ、結婚する前から約束を破るような人は信用できませんよね。

その後、1849年に一時的に戻ったリッチモンドで、かつての恋人サラ・エルマイラ・ロイスターと再会し、婚約したものの、なんと結婚する前にエドガー自身が亡くなってしまいます。
亡くなる前は州議会選挙旗艦中のボルティモアに滞在していて、投票所になっていた酒場で異常なほど泥酔していたそうです。
たまたま知人に発見され、病院に運ばれたものの、4日ほど危篤状態が続いた後、帰らぬ人となりました。
結婚式はこの10月に行われる予定でした。

ちなみにサラは、エドガーと再会した時点で最初の夫に先立たれて未亡人になっていたので、二回も夫を失っていることになります。可哀想過ぎる。

サラ・エルマイラ・ロイスター/wikipediaより引用

サラ・エルマイラ・ロイスター/wikipediaより引用

 

「クーピング」の被害者なのでは?

エドガーの死因は脳溢血・農園・アルコール中毒・心臓病などなどさまざまな説がありますが、イヤな意味でこの時代に即した説が一つあります。

当時、選挙に当選する手段として「クーピング」という犯罪行為がありました。

立候補者がその辺のアレな人々を雇い、旅行者などに無理やり酒を飲ませて、何回も投票させるというものです。テキトーな人を潰して、水増し投票をさせたわけですね。
現代だったら「なんで顔で気付かないんだ」などなどのツッコミが飛んで来るところですけれども、当時は選挙制度が荒削りだったので、そんな手法が成り立ってしまっていたのです。

そんなわけで「エドガーもクーピングの被害者なのでは?」という説があります。説得力がありすぎてこわい。

彼の診断書や死亡証明書などの書類が全て失われてしまっていることも、事態のきなくささに拍車をかけてますね。もしクーピングを仕掛けられていたのだとすれば、そう仕向けた立候補者がいたはずですから。

ミステリーの元祖がミステリーな最後を遂げた……というのは、なんとも皮肉なものです。

長月 七紀・記

参考:エドガー・アラン・ポー/wikipedia


 



-作家
-

×