作家

『星の王子さま』を記した作家アントワーヌ 本業は戦闘機のパイロット!?

昭和十九年(1944年)7月31日は、作家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが失踪した日です。

作家というと自ら死を選ぶ人も少なくないだけに、もしや……と思ってしまいますが、彼の場合は一風変わった状況でした。
この日に至るまでの生涯を追いかけてみましょう。

 


12歳のとき初めて飛行機に乗り、生涯携わっていく

アントワーヌは1900年ぴったりに、フランスのリヨンで生まれました。

五人きょうだいに両親というなかなか賑やかな家庭でしたが、アントワーヌ4歳のときに父が亡くなり、母に連れられて親族の城や屋敷で育つことになります。

サン=テグジュペリ家はいわゆる没落貴族の家柄で、資産を持っている人も数人いました。
おかげで片親といえど、経済的には苦労せずに済んでいます。

アントワーヌの青少年期はちょうど、飛行機が生まれて実用化していった時期でもありました。

彼自身も12歳のとき初めて飛行機に乗り、生涯「空」や「飛行機」に憧れを抱くようになります。
「三つ子の魂百まで」とはよくいったものです。

第一次世界大戦時、アントワーヌは戦火を避け、中立国であるスイスの学校に進みました。ここで文学に目覚め、ボードレールやドストエフスキーを愛読していたといいます。

卒業後は、自ら志願して陸軍の飛行機部隊へ。
頭蓋骨骨折という大怪我をして一度退役し、予備役になり、他の仕事を経験した後、民間の郵便飛行会社でパイロットをやっていたこともあります。

どうしても飛行機から離れたくなかったのでしょう。

 


パリ~サイゴン間の最短記録に挑戦して砂漠に不時着って……

作家デビューしたのは、26歳のときのことです。

人気が出るのは31歳のときに出した『夜間飛行』からで、空や飛行機をテーマとした作品を多く手がけております。
それだけに各国のパイロットにも愛読されるようになりました。

たびたび事故を起こしながらも操縦を続け、その一方で執筆活動も継続。
34歳のときに書いた『アンヌ=マリー』という映画の脚本で大当たりし、その利益で自分の飛行機を買っています。

しかし、です。
パリ~サイゴン間の最短記録に挑戦して砂漠に不時着し、たまたま通りがかったキャラバンに助けられるという、何ともビミョーな結末を迎えております。
下手をすれば即座に死んでしまうようなことを、よく何度も挑戦できるものです。

そのまま平和が続けば、パイロットなり作家なりで穏やかな生活を送っていたかもしれません。

しかし、時代はそれを許しませんでした。
第二次世界大戦が始まると、アントワーヌも再び招集され、フランス南部の町・トゥールーズで教官を務めることになるのです。

が、教えるよりも実践をしたかった彼は、半ば強引に転属させてもらいました。

ここでポイントになりそうな点が一つ。
アントワーヌは、戦闘部隊ではなく偵察隊への所属を希望しているのでした。

 


爆撃機の副操縦士を勝手に抜け出し偵察機へ

飛行機同士で撃ち合ったり、敵の支配圏へ爆撃――するのではなく、敵の動向を上空から探るお仕事。
戦時中ですから、実は危険なことにそう変わりありません。

「敵を倒したいがために飛行機に乗ろうとしていたわけではない」
という意思が垣間見えますよね。

しかし、程なくしてフランスがドイツに占領され、ヴィシー政権が講和(という名の降伏)をすると、動員を解除。
アントワーヌは一時フランスに戻り、その後ポルトガル・リスボンから海路でアメリカへ亡命します。

普通「作家が外国へ亡命した」と聞けば、「ああ、戦火を避けて創作活動をしに行ったんだな」と思いますよね?
ところが、アントワーヌは違います。

アメリカに渡った後、『星の王子さま』をはじめとした作品の発表をしつつ、またしても軍に志願したのです。
ただし、新しい機体の訓練を受けて実戦部隊に配属されながら、着陸失敗により事実上の除隊処分を受けてしまいまして……。

いくら量産体制が整っていたとしても、事故で貴重な戦力を破損させるような人はあまり使いたくないですものね。

アントワーヌは、ここでも驚くべき行動に出ます。

再三志願して部隊に戻らせてもらえたのに、着任命令を無視して別の部隊に行ってしまうのです。
な、何を言っているのか(ry

ちなみに元の配属先は爆撃機の副操縦士で、勝手に行った先は偵察部隊でした。やっぱり人を攻撃したくなかったんですかね。

 

妻の名が入ったブレスレッドが発見された

こうして半ば以上無理矢理に偵察部隊に戻ったアントワーヌでしたが、タダでは済みませんでした。

コルシカ島の基地から、非占領地域のフランス南東部、グルノーブル・シャンベリー・アヌシーあたりを偵察するため単機で出撃した後、地中海上空で行方不明になってしまったのです。

それから半世紀以上経った1998年、マルセイユ沖のリュウ島付近で、アントワーヌと妻・コンスエロの名前、それから「星の王子さま」の初版を出した出版社の連絡先が入ったブレスレットらしきものが発見されました。

まず間違いなくアントワーヌの遺品でしょう。
54年ぶりの「着陸」となりますね。

サン=テグジュペリが最後に搭乗したF-5Bのマーキング/photo by Cédric Chevalier wikipediaより引用

2000年に彼が最期まで乗っていた機体も見つかっており、三年後に一部の引き揚げが行われています。

また、2008年にはアントワーヌを撃墜したと思しき、元ドイツ軍人のコメントも発表されました。

彼もまたアントワーヌのファンであり、「あれに乗っていたのがサン=テグジュペリだと知っていたら、撃たなかったのに」と言っていたそうです。
後世のファンは「一度亡命できたのだから、軍に戻らずにずっと創作活動を続けてほしかった」と思う方がほとんどでしょう。

しかし、彼の作品が飛行機なしでは生まれなかったであろうことを考えると、地上にいたままでは良いものが書けなかったのではないでしょうか。

『星の王子さま』を読むと、アントワーヌは「飛行機からいろいろなものを見たくて軍に志願した」のではという気がしますし。
当時は民間機よりも軍の方がいろいろなところへ行けたでしょうし、戦闘部隊への所属は拒否しているあたり、勇敢だったわけでもなさそうです。

愛国心と空への憧れを加味した結果が、軍の偵察部隊だった気がしてなりません。

でも『星の王子さま』で、アントワーヌは「ほんとうに大事なものは目に見えない」とも書いているんですよね。
飛行機から物理的に見える景色にこだわらなければ、あるいは戦争が終わるまで待つ忍耐強さがあれば、もっと多くの作品が世に出ていたのかもしれません。

まあ、それも読み手側のエゴなのですが。

海中から引き揚げられたサン=テグジュペリのブレスレット/wikipediaより引用

長月 七紀・記

【参考】

『星の王子さま (集英社文庫)』(→amazon link
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ/Wikipedia


 



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